聖書研究 
罪について(1)

野澤 睦雄

「主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っている ものは聖霊によるのです。 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその 罪から救ってくださる方です。」」(マタイ 1:20-21)





1.はじめに
 私の教会の若者たちが讃美歌を作詞し、それに自ら曲をつけて歌っています。彼らの親たちも若い頃、熱心に讃美 歌を作詞作曲し歌っていました。今も教会の中で歌われているものが多数あります。残念ながらまだ他の教会の皆さ んに歌っていただくには至っていません。讃美歌を作詞作曲するのであれば、「いかなる恵みぞ(アメイジンググレイ ス)」、「我らの罪咎背負い給う主」、「きよしこのよる」、「主われを愛す」やクロスビーの多くの讃美歌のようにいつまでも 歌われる讃美歌を目指して欲しいと思うのです。


「大志を抱け!!」


それには確かな福音経験とその内容の理解が最重要課題で、プラス作詞作曲について学ぶことが必要なのですが、 実際に取り組んでみてその必要性を理解するに至るでしょう。
 それはさておき、日本のキリスト教界全体でも新しい讃美歌をつくり、歌うことが行われてきました。以前は讃美歌の 伴奏に使われるのはオルガンやピアノでした。
世の中のできごととして、電子機器が発達してきて、ギターなどをアンプを通して音量を上げることができるようになり、 ドラムなどと演奏する、音楽バンドが流行し出しましたが、教会の音楽にもそれが取り込まれるようになりました。それ らを背景に教会の音楽として多く歌われた讃美歌集が編集されて「友よ歌おう」が発行されました。これが一時代を画 したように思います。続いて登場したのは「プレイズワールド」です。他にも多く存在するかもしれませんが、私の接した 歌集の範囲では、これが第二の時代になったように感じます。
 さて、「友よ歌おう」と「プレイズワールド」を比較してみますと、「罪」ということばの出てくる頻度に大きな差がありま す。友よ歌おうでは、
「ドロローサ」という讃美歌
   わたしの罪のために
   思い十字架負わされ
   ・・・
に代表されるように、「罪」が前面にでていたように思うのですが、プレイズワールドでは、探しても罪ということば、なか なか出てきません。使われているのは歌集全体でもほんの2〜3回でしょう。
 この讃美歌の傾向は、先生方の説教の傾向を示しているのではないかと思うのです。自分の教会の先生の説教しか 聞きませんから直接その真偽を判定することはできませんが、かつては「神・罪・救い」と説教のテーマが言われていま したが、今はきっと「愛と癒やし」を語られているのではないでしょうか。
 教会の先生方の説教は、きっと多くの影響を信者に与えていると思います。信徒は先生に似てくることは間違い有り ません。先生方が罪について語るなら、信徒は罪について考えます。もし罪からの素晴らしい救いを経験しそこに生き 続けたら、自分のつくる讃美歌に罪とその救いを歌わないでいられるでしょうか。

 イエス・キリストがこの世においでになったのは、私たちを「罪から救う」ためでした。私たちは自分の罪に目を留め、 そこにイエスの救いをいただくこと、これにまさるものはありません。世の何を獲得しても、そこに自分の罪があったら、 すべてが虚しくなります。

 罪はこころをくらくする、避けて通りたいテーマです。ところがそこにキリストの救いをいただくならば、それは最高の喜 びのテーマになります。
 4人のひとに担われイエスのもとにきた中風であった人は、
「子よ。心安かれ。汝の罪赦されたり。」
(マタイ 9:2文語訳)
と言われました。罪の赦しに心の平安があるからです。

ハレルヤ!っと叫ばせるのは罪の赦しです。

ひとたびは我も 罪をつくりて
迷いゆきし 身なれども
今は救われて 主のみ手にあり
日々叫ばん ハレルヤ、と
(インマヌエル讃美歌216)


このコラムで皆さんと「罪について」の考察をしたいと願っています。

(仙台聖泉キリスト教会会員)










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