結実  

著 者 序


 1981年8月に、私は義弟と一緒に私たちの所属する仙台聖泉キリスト教会の山本光明牧
師の許可を頂いて聖書研究会を始めました。そのとき先生から「聖書研究会をするのなら、発
表者は必ず担当箇所を研究し、まとまったものを発表してもらいたい。なにも準備せず、その
場で聖書を一章読んで、思いつくままに議論するような聖書研究会ならやめなさい。」との指示
がありました。以来現在までその聖書研究会が続けられていますが、私は私の担当分につい
ては、必ずオリジナルな発表であるよう心がけました。本書はその研究結果の一部分を整理し
たものです。


「天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のよう
です。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘達はともしびは持っていたが、油を
用意しておかなかった。賢い娘達は、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を持っていた。」
(マタイ 25:1〜4)

 今、世界では次のようなことが起きています。「偽キリスト」(マタイ 24:5)は既にたくさん現れ
ましたし、更に多く現れることでしょう。「戦争と地震と飢饉」(マタイ 24:6〜7)が多く起こり、ロー
マ帝国はEUとして復活し、「けものの数字である666」(黙示 13:18)で区切られたバーコード
なしには「売り買いができなく」(黙示 13:17)なってきました。エイズが恐ろしい広がりをみせて
いますが、これは「ひどい悪性のはれもの」(黙示 16:2)ではないでしようか。そのような悪性
の病気はエボラ出血熱をはじめまだまだたくさん出現しそうです。オゾン層は破壊されて紫外
線が直接地表に届き、地球温暖化物質が大気中に蓄積されて気温が上昇するなど「太陽が
人々を焼く」(黙示 16:8)事態が進行しています。またチェルノブイリ原発の事故によってその
一例が示された放射性物質や、化学物質によって川河や湖や海の「水が苦くなる」(黙示 8:
11)事態が着々と進んでいます。人々は環境ホルモンといってその深刻な事態に気づき始めて
います。核兵器が拡散し、核戦争が起こり、さらに大きな「星が降る」(黙示 8:10)様な事態も
間近であると感じさせられます。過去の戦争において既に経験済みですが、次の戦争でも核
兵器だけでなく通常の砲弾も雨霰と降り注ぎ、まさに「1タラント(約34kg)ほどの大きさの雹」
(黙示 16:21)が降る事態を示すことでしょう。次の戦争が起きた時は大患難の時代に違いな
いと思わせられます。「イスラエルは再興」(ローマ 11:26、使徒 1:6)され、「御国の福音」(マタイ
 24:14)は電波にのせられ、あるいは印刷された聖書として全世界に届いています。はじめに
述べたように、以上はあくまで”一つの見方である”つまり歴史観の一説に過ぎませんが、いず
れにせよこれらの全体が指し示していることは、聖書に記されているキリスト再臨の条件が
着々と整いつつあるということです。

 このように書き始めたのは再臨を叫ぶためではありません。キリストの再臨は間近であり、
「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス書 12)とありますから、私達はお互いに自戒
しあい、”再臨の主にお会いする備えをしましょう。”と勧めるためです。そして、「やがて主イエ
ス御使いをひきいてきまさば、その御前に我もあらん。ああそこは御国ぞ。」との讃美歌(インマヌ
エル讃美歌328番)にあるとおり、「再臨の主のおられるところは天国」なのですから、エノク(創
世記 5:24)やエリヤ(列王記U 2:11)のように「天国に生きたまま入れる潔さ」すなわち「霊
の内が神に明け渡され、一点の不服従もなく生きること」を潔めの標準とすべきこと、その潔さ
をもってこの世における生活をしながら主のおいでを待つべきことを勧めるためです。なぜな
ら、罪を持ったまま天国には入れません。再臨の主にお会いすることができるのは潔められた
人だけなのです。「聖くなければ、だれも主を見る(会う)ことはできない」(ヘブル 12:14)からで
す。潔められずにこの世の生活をしながら、”主が再び来られて、完全に救って下さる”と信じ
ている人は「あなたはどうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。」(マタイ 22:12)
と言われてしまいます。

 私がこの書を著したいと思い立ちましたのは、以下のような理由からです。神は私に聖潔に
与った時とは別に新たな聖霊の満たしを与えてくださり、次の聖言を示されました。「聖霊があ
なた方に臨むとき…わたしの証人となります。」(使徒 1:8) ですから、私には教友達にこの恵
みを証詞する負い目があります。そしてそれを書物とすることは、与えられた恵みを広く証詞す
るための有効な手段と考えました。潔めに関する書物は既にたくさん出版されていますが、そ
れらの著作に付け加えることは教友の益となると思います。キリスト者にとっての最大のテーマ
である聖潔を頂き、神の前を潔く歩むということに触れる機会が一つ増えるからです。

 私は、聖霊が新しい時代、ウェスレーの次の時代の到来を告げておられると信じます。その
テーマは「教会」です。「聖潔」を論ずるのになぜ「教会」を取り上げるのでしょうか。その理由は
以下の点にあります。日本ではこの種の書物は「聖化論」という名称で発表されることが多い
のですが、日本のキリスト教界では「聖化」という言葉を「聖潔」と同一の意味に取り扱っていま
す。しかし、もともとの日本語の上から言えば、聖化という言葉には「変化」を示す意味が含ま
れています。すなわち「聖化」という場合には「潔くなかった」ものが「潔いものに変えられる」こ
とが主題なのです。これは学校を例にとるならば、入学試験であって、聖化されるとは、入学試
験に合格し学校に入ることを許されることに相当します。しかし入学試験を論じて学校を論じた
ことになるでしょうか。入学前にどんな学校で、どんな先生がおり、何を教えてくれる、どんな資
格が与えられるかなどを調べて学校を決め、それから受験するでしょう。その程度には、神の
備えてくださった「聖潔の恵み」に関しての知識を得て「潔められる」経験を求めることでしょう。
しかし学校において教育して頂けるのは、入学した後で起きることなのです。同様に「聖潔」を
本当に自分のものとして身につけることは、「潔め」の経験をさせて頂いた後に起きることなの
です。「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、…あなたがたに与えている。」(ヨシュア記 1:
3、14:9)と書かれているとおり、摂理により神が遭遇させなさる人生における様々な事態、失
望する事態、忍耐を要する事態、苦痛に耐える事態、愛を要する事態、寛容を要する事態、謙
遜を要する事態等々に、信仰によって気落ちせず、忍耐し、苦痛を忍び、神と人を愛し、寛容
であり、謙遜に生き、それらのよき実を結ぶことによって、カナンの地(申命記 7:7〜9)、約束
の地、聖潔の地は私達のものになるのです。教会は「真理の柱、真理の基」(テモテT 3:15)で
あって、キリスト者がその姿を顕わす場です。ある者は潔く、兄弟達を担うものとして生きます
が、あるものは担われつづけて生涯を閉じます。そこにキリスト者の結実と成長の場がありま
す。潔めはこの結実、成長と切り離すことのできないものです。ですから、「聖潔」と「教会」を一
緒に論じなければならないのです。「…キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげら
れた…のは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであ
り、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の
教会を、ご自身の前に立たせるためです。」(エペソ 5:25〜27)

 以上の考えから本書に記す主題は、教会、キリスト者の結実と成長と聖潔です。ウェスレー
ならびにその後に続いた人々の記している著作と重複する部分も含まれていますが、聖潔の
全体像を理解しやすくし、本書を読みやすくするためのものです。

 私はこれらのことを整理していくうちに、「教会の関係」という概念を持つに至りました。それ
は、神の権威のもとに福音を前提として、二人以上の人が一つの課題の当事者となるというこ
とであって、単に救われている信者どうしの間にだけでなく、信者と不信者の間にも存在する関
係です。教会の中では、牧師と信徒、夫と妻、親と子、兄弟姉妹と兄弟姉妹、信者と求道者の
間にその関係が存在します。教会の関係において真の”聖徒の交わり”が築かれたり、あるい
は人間の罪、愛の不足が暴かれたりします。例えば説教は、語る人は当然当事者ですが、そ
れを聞く側の人々も当事者なのです。説教者にとって説教は彼の人生をかけた作品であって、
彼の人格、これまで積んできた精進、神の前に立った祈りの姿勢、聴衆の課題の把握の程
度、それに対する解決の指針を示す技量等々がそこに顕わされます。語る人は絶えずみもの
にされます。しかし聞く側も、説教を値高く値づもることができるか、説教を自らの信仰の糧、
人生の糧にできるかなどをはかられます。教会の関係に立っていないならば、牧師は信徒か
らその語るところを本から得る知識並に取り扱われ、夫婦は一体とならず、親は子に対する権
威を失墜します。信者は不信者に対して福音宣教の権威を失い、かえってこの世の力を恐れ
ることになります。

 福音経験という視点から見た従来の神学をつき詰めて言えば、「神の前に一人の人が福音
経験をし、出ていって人々に愛を施す」という神学です。これを私は「一人の神学」と呼びたいと
思います。
 教会の関係は、「神の権威のもとにある『私とあなた』の関係の中で福音経験をする」という
神学です。これを私は「二人の神学」と呼びたいと思います。聖潔は二人の神学の中に存在し
ます。なぜなら、聖潔は全き愛でありますが、愛は自分一人がいるだけでは顕わし得ないから
です。

 この書を読まれる皆さんが、「油を用意し、ともしびを持って花婿を待っている賢い娘達」(マタ
イ 25:4)でありますように。潔めに与るだけで精一杯で、あたかも学校の入学試験に大部分
の人が不合格となり、また合格しても合格するまでにくたびれて、学校にはいると息切れがして
遊びほうける日本の大学生のようであってはなりません。私が救いの恵みに与った当時、私の
所属する教会では、牧師が集会の度ごとに、毎回欠かさずと言えるほど「聖潔」について説教
されましたが、信者の中にそれに与りましたと証詞する人は、ほんの僅かしかいませんでし
た。今それが大変多くなったことを喜んでいます。日本の潔め派のキリスト者達が、潔めに与
ることを当然とし、目を覚まして聖霊に満たされた人生を送ることを当然としますように。

 1999年3月25日
                                           野 澤 睦 雄

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