結実  

2.真理の論証について

・・・本書の論議の立脚点・・・

 キリスト教の知識は神の啓示を出発点としており、本書では啓示された内容についてその真
偽を問うということは致しません。しかし、人間は同一の啓示に接しても同一の受け取り方をし
ません。ですから、考察を進める手順、手段を明らかにする必要が生じます。どのような条件
が整ったならば、それは本当だと判断したり、あるいは違うと判断するのでしょうか。本章では
それらの点について次の事項に区分して考察します。

 ・啓示と論証
 ・論証の方法について
 ・本書において採用する公理(立脚点)


1.啓示と論証

 神が人間に何かを示されるとき、あるいは私達がどなたかに福音を伝えるとき、論証は必ず
しも必要ではありません。説教は神の権威の下にあります。神は宣告されるだけで十分なので
す。「お言葉を下さい。」それが百人隊長の信仰でした。(マタイ 8:8)

 しかし神は人間が納得できるよう配慮して下さるのです。そして論証され、納得ができないな
ら議論しようではないかとまで言って下さるのです。「さあ、来たれ。論じ合おう。」(イザヤ書 1:
18)と。

 イエス・キリストも多く点で論証することをされました。たとえば、「神の国と神の義をまず第一
に求めなさい。」(マタイ 6:33)「さばいてはいけません。」(マタイ 7:1)「狭い門から入りなさい。」
(マタイ 7:13)「にせ予言者たちに気をつけなさい。」(マタイ 7:15)「わたしについてきたいなら、
自分の十字架を負いわたしについてきなさい。」(マタイ 16:24)「わざわいが来ますぞ、偽善の
学者パリサイ人たち。」(マタイ 23:13)等々たくさんの勧め、命令、断定などについてその前後
にすべてその理由が論証されています。

 使徒達も自分達の主張についての論証をしました。たとえば使徒の働き二章の聖霊降臨の
あとペテロはその内容を説明し、それが聖書に基づくものであることを論証しています。(使徒
 2:14〜36)

 パウロもまた論証をしました。その情景の事例は使徒の働き九章にあります。(使徒 9:22)

 本書においても、その主張するところについて論証をしていきます。


2.論証の方法について

 キリスト教に関する書物に目を通すとき、これは違うのではないか、論証になっていないので
はないかと思わせられるものもあります。身近な例を挙げてみますと、例えば、聖霊は人格で
あることの論証として、”聖霊は自ら考えることをされ、嘆いたり喜んだりする情を持たれ、物事
を実行される意志を持っておられるからすなわち聖霊は人格であられる。”とするようなものが
あります。すなわち聖霊が人格であることの論証として聖霊が「知・情・意」を持っていることを
示しているのですが、その論証の欠陥は、例えば犬が「知・情・意」を持っていることを立証され
ると論証が崩れることで分かります。犬に限らず、人間の身近にいる家畜、即ち猫、山羊、羊、
牛、馬、また鶏でも、知情意を有することは明白です。これは「必要条件」と「十分条件」という
ことに心を留めずに説明している例なのです。つまり知情意を有することは、聖霊が人格であ
ることの必要条件であって、十分条件ではありません。

 あることを「眞」であると論証するにあたり、数学の命題の証明方法は非常に参考になりま
す。数学では、はじめに前提条件として証明なしに、いくつかの項目について、これは眞である
と決めるのです。その決められたことは「公理」と呼ばれます。たとえば、「平行線は無限の遠
方まで等しい距離を保つ。」と決めるのがユークリッド幾何学の公理ですが、「平行線は無限の
遠方で交差する。」と公理を決めると非ユークリッド幾何学として、同様に幾何学を展開するこ
とができます。公理を前提に、命題と呼ぶある証明すべき事柄を決め、それが「眞」であるか
「偽」であるか論証するのです。その論証に当たって「帰納法」、「演繹法」、「背理法」などの手
法が用いられます。ある命題が「十分条件」を満たしたときその命題は「眞」であると言えるの
です。

 本書においても前述の論証の方法と、一般に受け入れられている「ある命題が、眞であると
同時に偽であることはできない。」というようなこととを論証の基盤として是認することにします。
これを「聖書は誤りに満ちているけれども真理の書である。」ということはない、というように適
用します。「聖書は誤りがないから真理の書でありうる。」のです。「聖定と人間の自由は両立
する。」というと「真であると同時に偽であるといっているのと同じ矛盾に行き当たるがそれをそ
のまま受け入れる。」とカルビン主義者たちが主張しているような内容がこの問題です。「神の
真実にかけて言いますが、あなたがたに対する私たちのことばは『しかり。』と言って、同時に
『否。』というようなものではありません。」(コリントU 1:18)

 また、近代哲学を風靡した「自分に認識できないことは存在しないことだ。」などという考えは
これを否定します。この考えは新神学と称するものを通じて大変な悪影響をキリスト教界にも
たらしました。これを正当化すると、神を認識できない者にとって神は存在しないのである、と
いうようなことになってしまいます。人が認識しようがしまいが神は居られるのです。

 用語については通常の用語をそのまま使うことを原則としますが、キリスト教で使用している
用語には、通常使用されない意味合いである場合もあるので、気づいたものは本書ではどの
ような意味でその用語を用いたかを解説します。


3.本書において採用する公理(立脚点)

 本書では以下のことを、公理すなわち論証なしに受け入れるものとします。

1 神が存在されること

2 神が聖書に真理を啓示されていること、そして聖書には「史実」「事実」「真実」が記されてい
ること

3 自然界と人間の精神活動によって示される領域の事象は、神の真理が適用される場であ
り、そこに示されていることはそれが客観的に確かに存在する事柄であれば、一事例としての
真実性が存在すること

 聖書に対してはその「史実性」即ち学問の観点から「神話は含まれていない」ということ、「事
実性」即ち法的意味に於いて「虚構は含まれていない」ということ、「真実性」即ち倫理的観点
から「虚偽は含まれていない」という三点を認め、その議論には踏み込みません。

 聖書に示されている奇蹟については、「神がその時点においてのみ特別に働きなさったも
の」とし、一般的には、私たちの通常経験するところのこと、また自然科学、人文科学、医学、
社会学、政治学等々に示される科学と称するものも否定しない立場をとります。ただし、聖書
が全ての人間の知見に優先するものであるという不動の位置を聖書に置き、本書の論証は聖
書に書いてある記事を示すだけで十分であるとします。

 問われることは、同じ聖書の言葉を前にして、異なる意味に受け取る人々が現れること、つ
まり聖書解釈が正しいか、神が示された意味を正しく把握しているか否かということです。



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