結実
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御救いはあなたが
万民に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの栄光です。(ルカ 2:31〜32)
本書は聖潔に焦点を当てていますが、神が人間のために備えられた救いの全体像を把握し
ておくことは、その聖潔を理解し、聖潔に生きるために重要です。本章では以下の事項につい て考察します。
・救拯史について
・個人の救いの概観
聖書歴史を概観するとき、神は時代によって人間に与える恵みと、人間に課す課題、要求す
る内容、基準、律法を変えられたことが分かります。現在生きている人間も、神が定められた 聖書歴史の一部において生きているのであり、聖潔を考える上において、その歴史上の位置 づけを把握していることは欠くことの出来ない要件です。本書ではその概論だけを述べ、詳細 を取り扱うことは致しません。詳細な研究には、エーリヒ・ザワーの「世界の救いの黎明」(55)と 「十字架の勝利」(56)などが参考になることと思います。
・天地創造
神は六日(創世記 1:1〜2:3)間で天地を創造されました。これは現在と同じ暦日の六日で
す。現在の時間で進行している事象の何十億年分かを神はたったの六日で実行されたので す。
アダムは、人間以外の動物たちのように創造されたのではなく、これらとは全く断絶して、神
が特別に地の塵から創造されました。神は人間に魂(心)を与え、人霊をそのうちに住まわせ て霊、魂、体の三重の構造とし、霊界と自然界にまたがる生き物とされました。 ![]()
創造されたときのアダムは、神がご覧になって「非常によかった。」(創世記 1:31)と言える
ほどに完全でした。これを「アダムの完全」と呼んでいます。そして大変長寿でした。アダムの 年齢(創世記 5:5)、ノアの年齢(創世記 9:29)、アブラハムの年齢(創世記 25:7)、ダビデ の年齢(サムエル記U 5:4、列王記T 2:10〜11)、イエスの年齢(ルカ 3:23)のいずれを語ると きも聖書のトーン(語調)は全く変わっていません。すなわち同一の暦日単位による年齢を述 べています。
・アダムとエバの堕落
アダムとエバが罪を犯したとき、その完全は失われて、罪の性質を持つ者となりました。そし
て同じ罪の性質をもつ子孫を生みました。(創世記 5:3)これが、神の人間に与える救いに、 聖潔の恵みを備えることが必要である原点です。聖潔を、罪の性質はそのまま不問にし、"聖 霊に満たされて、罪を犯さなくなること"と考える人々がいますが、そうではなく、聖潔の本質は "罪の性質に対する解決"にあります。
・アブラハムとイスラエル民族
アブラハムとその子孫であるイスラエル民族の使命は、イエス・キリストがこの世に来られる
道となることでした。ですから、アブラハム自身の選びも、イシュマエルが退けられてイサクが 選ばれたことも、エサウが退けられてヤコブが選ばれたことも、ただこの使命を担うための選 びに過ぎず、本来一人しかいらないものであったのです。カルビン主義者たちはこの選びと、 永遠の滅亡からの救いとを混同しています。
モーセの律法と動物の犠牲による贖罪の儀式、これらは教育上の雛形でした。
「その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えている」(ヘブル 8:5)のです。ですから、旧約
の律法では、食物、衣服、住居、生き物の種類、死骸、排泄物、体からでてくるもの等々のあ るものを汚れたものと扱って、その教育素材とされています。これらはあくまでも宗教上の真理 を教えるものであって、現代人が考える衛生などの見地に立つものではありません。「らい病 の患部が人にあるとき…もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患 者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。」(レビ記 13:9〜13)という規 定がそれを示す好例です。
これらの規定は、十戒や「心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し…」(申命記 30:
6)「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記 19:18の規定同様に、新約の光 のもとに置き換えられて、キリストの律法に組み入れられるのです。そこに雛形としての意味合 いがあります。
その理由を神はこう言われます。「あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主である
わたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしょうと、国々の民からえり分けたからであ る。」(レビ記 20:26)
ルターは、ローマ人への手紙序文(57)の中で、律法は行為のみでは満足されえず、心の根ま
で要求するとしています。しかし、ルターの解釈は新約のキリスト者に対してのみ当てはまるも のとして限定される必要があるでしょう。旧約時代の人々への要求は、外面的なものでよしとさ れました。「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それ を起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」(出エジプト記 23:5)これがモーセの律法の範囲です。キリストの律法では、「自分の敵を愛し、迫害する者の ために祈れ。」(マタイ 5:44)であり、心の根まで要求され、「それを起こしてやりたくない。」と思 ってはいけないのです。ですから旧約のユダヤ人に要求されている義とキリスト者の義には差 があると考えるべきです。
・キリストの来臨(初臨)
永遠の神が、人間とともに時間の世界におられる不思議がここにあります。そして真の人間
となられ、霊、魂(心)、体を持たれました。
忘れてはいけないことは、イエスは、旧約に従って生きられたことです。彼は生まれて八日目
に割礼を受けられ、年毎の祭りに参加されました。ユダヤ人の生活上の規範の中に生きられ たのです。ですから、在世中に弟子達に要求された生活の規範は、旧約の律法によるもので した。
キリストの地上生涯には贖罪に加えて次の三つの重要な意味合いがあります。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでし
たが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわ れみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座 に近づこうではありませんか。」(ヘブル 4:15〜16)キリストご自身が人間と悩み苦しみをともに し、またその弱さ、頑なさを味わわれることがその一です。
二つ目は弟子の育成でした。
三つ目は、聖霊がイエスの内に住まれ、イエスと悩み苦しみをともにされ、人間の弱さ、頑な
さを嘆かれることでした。A.B.シンプソン(58)はこう語ります。「それで多分(旧約と新約の聖 霊の)相違点を要約すればこうであろう。旧約において聖霊が神たるの尊厳と栄光をまとい父 の霊として来たり給うたのに引き換え、新約において聖霊はイエスの名代として来たり我らの 経験と生涯の中に彼を現実に生かすため、子の霊として来られたという点である。…そうなる には、どうしても三年間ナザレのイエスの中に住み給う必要があったのである。」こうして聖霊 はキリストの心を心とすることのできるお方になられました。
こうしてイエスは、自らは天における執り成し手となられ、地上に「キリストの心を心とすること
のできる弟子」と、「キリストの霊」であり「キリストの心を心としておられる聖霊」とを残されたの です。
・十字架の死(贖罪)と復活
十字架の贖罪は、人間に恵みが与えられる法的根拠です。それは、罪の赦しはもとより、聖
潔も、肉体の復活すなわち栄化された霊の体を与えられることもすべて贖罪によるのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者
が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ 3:16)贖罪は完成さ れ、救いの準備ができましたが、それを個人が受け取るには、「信じる」ことを要求されます。こ の聖書のことばは明快で、信じることだけが救いの条件であり、だれでも信じさえすれば救わ れることを示しています。
・聖霊の降臨
信じた人々のうちにキリストの贖罪を実現するお方は聖霊です。救いの恵みに与ることも、潔
めの恵みに与ることもすべて聖霊がなさるのです。
聖霊がおいでになり、新約の時代に入ったのです。イエスの在世中のできごとは、新約の基
準に入れるべきではありません。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんあります が、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来 ると、あなた方をすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ 16:12〜13)とのイエスのことばが成 就して、新約の基準が明らかにされました。そのことについてもっとも大きな働きをしたのはパ ウロでした。
新約の時代は、聖霊の時代であるとともに教会の時代です。その規範は、キリストの律法で
あり、聖霊がおられて信じる人々の中にキリストの救いを実際に実現されます。
私たちはこの時代に生きています。
・キリストの再臨と教会の携挙
「あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見た
ときと同じ有り様で、またおいでになります。」(使徒 1:11)
「主は号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られ
ます。それから、キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たち が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」(テサロニ ケT 4:16〜17)
聖書は、キリストの再臨と彼を信じて死んだ死者の復活と、生きている信者の携挙とを明確
に告げています。しかし、多くの信者に忘れられている一事があります。それは「聖くなけれ ば、だれも主を見ることができません。(この聖潔なしに、だれも主にお会いできません。)」(ヘ ブル 12:14)とも明確に記されていることです。
死ぬまで潔められないと信じている人々は、生きたまま再臨の時を迎えたらどうなるのでしょ
うか。
・第一の審判と千年王国
「彼らは生き返って、キリストともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わる
までは、生き返らなかった。これが第一の復活である。…かれらは神とキリストとの祭司とな り、キリストとともに千年の間王となる。」(黙示 20:4〜6)
キリストを信じて死んだ死者は千年王国の前に復活があり、生きて主の再臨を迎えた人々と
千年王国の幸いをともにするのです。千年王国の間、サタンは「底知れぬところに投げこまれ …諸国の民を惑わすことのないように」(黙示 20:3)され、自然界全体にその影響が顕れて 「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わ たしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」(イザヤ書 65:25)との聖言が文字通り実現します。
千年王国のはじめに諸国の民が裁かれますが、これは第一の審判であると言えます。
・世の再反逆と滅亡
「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され」(黙示 20:7)て諸国の民をもう一
度惑わし、人間の多くが反キリストの戦争に加わることが示されています。これは、千年王国 の幸いを味わっても、人間の、主の権威に服すことを望まない心は変わらないことを示します。 しかし神はその御力を現し、反逆するものを滅ぼし、サタンを「火と硫黄との池に投げ込まれ」 (黙示 20:10)ます。
・死者を含む第二の審判
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。…一つの書物が開かれ
たが、それはいのちの書であった。死んだ人々はこれらの書物に書き記されているところに従 って、自分の行いに応じてさばかれた。…火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。い のちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示 20:11〜15) 千年王国のはじめに復活しなかった死者もすべて復活し、この最後の審判とも言われる第二 の審判を受け、第二の死に定められます。
・新天新地と天上のエルサレム
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地とは過ぎ去り、もはや海も
ない。私はまた、聖なる都新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように
整えられて、神のみもとをでて下ってくるのを見た。」(黙示 21:1〜2)神は現在の世界を古い
ものとし、これをぬぐい去って新しい天地と、永遠の都としてのエルサレムとをお与えになりま す。
キリストの救いに与かった人々は、キリストを讃美して永遠に至ります。
前項で述べたように、世界全体の救いについて神の定められたプログラムがあるのと同様、
人間一人々々の救いについても、神はプログラムを用意されておられます。それを理解しない と、救いも潔めも、例えば"石に躓いて転んだ"とか、"宝くじに当たって喜んだ"とかいうあるそ の時点での経験で終わってしまい、救いの時点を転機に長く救いの人生を生きる、潔めの時 点を転機に長く潔い人生を生きるというような信仰生活ができないのです。
次ページの図は、神が人間に備えられた救いのおおよその流れを示します。
・人間の創造(誕生)
聖書の示す人間観の章でも述べたように、人間は親の形質を受け継いで生まれます。その
受け継ぐ形質は、肉体や魂(心)だけでなく、霊にもおよびます。アダムが罪を犯し、罪の性質 を持つ者になって以来、人類全体が罪の性質をもって生まれるに至りました。その罪の性質は 徹底していて善なるものが全く存在しない「全的堕落」であると信じられています。 ![]()
前章でも述べたようにそれは、利己心と神の権威、支配に服さない点に顕れています。
人間が断罪されるのは、罪の性質をもっているからではなく、罪を実行し、罪人となるからで
す。罪の意志決定を出来るに至らない嬰児がそのまま死んだならば、天国に受け入れられる と信じられています。それを「嬰児の義」と呼びます。
この原則は、生まれつき魂(心)を病む等の理由で自らに責任をとれない人々についても当
てはまります。
・救いの経験(罪の赦し、新生、聖霊の内住)
全的に堕落した人間には、神を求め、悔い改めてイエス・キリストを信じ、救われることがで
きません。聖霊が全的に堕落している者の内にも働いてくださり、心を開いて、悔改めと信仰を 持つことを助けてくださるのです。そのとき人は、イエスを信じて救われることができます。
信仰とは何であるかその定義について、アンドリュウ・マーレーは、「(信仰とは)人が神の啓
示を認識して受け入れる霊的機能であり、その啓示によって呼び覚まされた霊的感覚です。」 (59)としますが、これはむしろ霊と魂(心)の機能の部分の定義です。新生の命が与えられる 以前にその機能が働くのは、神の先行恩寵によるのです。信仰は、「信じなさい。」という命令 に、アンドリュウ・マーレーが言う呼び覚まされた霊的感覚を用いて応答する「意志的行為」で す。
神は、人が救いに与りたいと思い、放蕩息子が立って父のもとに帰ろうと決断したように、救
いに与る決断を、人間の罪の本源とも言える「利己心」を用いてさせなさるのです。人が救いに 与りたい事自体、己を利するために他なりません。しかし神はそれをよしとなさるのです。イエ スの引用された放蕩息子(弟息子)(ルカ 15:17)は、自分の食を得るために父のもとに帰って 行ったのです。
人が救いに与るための、神の側の準備は整っています。人が救いに与かりたい場合、罪の
悔改めと、イエスを信じることがなされなければなりません。罪の悔改めは、事務的に実行す ることが大切です。しかるべき信仰の指導者(多くは牧師ですが)のもとに行き、自分の知って いるすべての罪を「口に言い表す」(ローマ 10:10)ことです。これをしないため、教会に出入りし ている多くの人が、心ではキリストの教えに同意していても、罪ゆるされ新生の命に与ることが 出来ないでいます。罪を言い表すと、聖霊が働いて下さって、イエスが私を救ってくださると信じ ることができるものなのです。
救いに与ったとき、人間は神によって救われたことを必ず自覚します。その自覚を与えられ
ていないで平気でいる人は、救われていないと判断できます。
救いの経験は、人間に三つのことをもたらします。
その一は、罪の赦し(義認)です。義認とは、イエスが私たちに代わって罪を負われた故に、
あたかも罪が無かったもののように取り扱って下さることを意味します。
第二は、新生であって、永遠の命が与えられることです。
第三は、聖霊が魂の内に住んで下さることです。
この段階では、人間は、自らの霊を自分のものとして、聖霊に服さないまま保有しており、罪
の性質は人霊の内に残されています。また霊を神に明け渡していないので、霊の内に神の光 は未だ届かないのです。
ですから、まじめに信仰生活をしていくと、新生の命に従って生きようと思っても、罪の性質は
人に罪をもたらし、葛藤することになります。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの 死のからだから、私を救い出してくれるでしょうか。」(ローマ 7:24)との叫びは、新生の命に与っ ており、かつ、まじめに信仰に生きている人におきるものです。かえってこの叫びこそ、聖潔の 生涯の入り口となっているのです。
・潔め(聖潔、聖化)の経験(罪の性質の除去、聖霊の内住)
罪の性質に振り回されて罪を犯した自分を見て、神に明け渡していない自分のかたくなさを
悔い改めたとき、神は聖化に与らせて下さるのです。どのようにして潔めに与るかは、ひとそ れぞれ異なることでしょう。しかし、必ずなされなければならない条件は、自らの霊の内側ま で、神に明け渡すことです。
人霊の内にある罪の性質は、「聖絶」(ヨシュア記 6:17、11:11など)されなければならないので
す。人が悔い改めて自らを明け渡すとき、聖霊は罪の性質を聖絶して下さるのです。「聖絶の ものはもっとも聖なるものであり、主のものである。」(レビ記 27:28)のであって、「聖絶」と「聖」 と「主のもの」とは一体で切り離すことは出来ません。聖絶される罪の性質とは、「神の権威、 支配に服さない」というその一点だけです。このことは、R.S.ニコルソン(60)の提起する、 「現世においてドノ程度に罪よりの釈放を期すが聖書的か」、人は潔めの経験に当たってどの 程度のレベルの潔さというものを与えられるのか、あるいは、どの程度のレベルの潔さによっ て「潔められた」と言ってよいのか、という命題の回答でもあります。神に対する全き服従は、 全ての事態に対する備えを全うしているのです。「神の権威に完全に服従した私(人霊)」と「聖 霊に満たされた私(人霊)」が、聖化の内容です。その時人は「動機の完全」すなわち「利己心 からの解放」を得ています。
潔めの経験も、救いの経験と同様に、それが与えられると、与えられた人自身が自らの内に
大きな変化のあったことを必ず知り、潔められたとの確信を持ちます。神はそれを本人に知ら せて下さいます。これが第二の転機として経験されるものです。
潔めの経験は、罪の性質を除かれることと、聖霊が魂の内すべてに満ちて下さる、豊かな聖
霊の内住との二面をもたらします。
もはや魂の内に神の光の届かないところは無くなります。ですから、神の前に隠すものはな
く、それが人間に「自由」を実現します。「キリスト者の自由」はここにあります。神の前に隠さな ければならないものがある時、人は「不自由」なのです。この自由はしばしば取り違えられて、" 教会、家庭、職場あるいは社会的な組織上からの、指導、指示、命令、各種の制約などを受 けないことである"と思われたりしますが、それらは全くの見当違いなのです。
神が人間の救いを、新生と聖潔の二段階に分けられたことには、合理的な根拠があります。
それは、はじめの救いを受ける段階では、人は全的に堕落しており、自らの意志というものは 十分に働かすことができません。新生の命は人間に意志決定の自由をもたらします。その意 志決定の力によって、神に明け渡してつまりすべての神の御心に服従して生きることを決定し ます。そして「イエスの血はすべての罪から私たちを潔め」(ヨハネT 1:7)ると信じるのです。
ここに、聖潔に与る際の大切な問題が示されています。潔めを求める多くの人々が、「神よ。
私を潔めて下さい。」と言いつつ、神が働いて下さるのを"死体の姿"で待っているのを見かけ ます。潔めに与るときは、その自由意志を働かせ、"生けるものとして"神の権威に服して生き ることを決意しなければならないのです。「服従と信仰」が潔めの鍵であるということは、ジョン・ ウェスレーのときから語り続けられているのですが、このように今でも教えられなければなりま せん。潔めに与るために"自我に死になさい。"と教えられることが、その真意を理解されない で受け取られるためでしょうか。
・聖潔の生涯
潔めの恵みを受けてから、キリスト者は、S.A.キーン(61)が、語る前進的聖化を歩むこと
を期待されています。型の見地から言えば、カナン全体の領有のために前進し、これを戦いと らなければなりません。「あなた方が足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束した とおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア記 1:3)
潔められると霊的戦いが無くなると思う人が多いように思います。救われる以前は、罪を犯し
ては後悔(悔い改めでなく)することの繰り返しです。救われて荒野を歩む間は、罪を犯して悔 い改めることの繰り返しです。しかし、聖潔の生涯は、誘惑と戦うことの繰り返しです。神は、潔 められた人の人生に様々な課題を置きなさいます。それらはしばしば、苦痛であり、困難であ り、苦いものです。「死の陰の谷」(詩篇 23:4)と呼ぶことがぴったりの状況もあります。その 目的は潔められた人が結実するためなのです。足の裏で踏むとは、それらの状況の中を信仰 をもって歩むことそのものです。愛が必要な状況に置かれたとき、愛の実を結ぶことができま す。寛容が必要な状況に置かれたとき、寛容の実を結ぶことができます。忍耐が必要な状況 に置かれた時、忍耐の実を結ぶことができます。
・結実
「実を結ぶ」とは、「品性を持つこと」と誤解されていることが多いようですが、ある人が実を結
ぶという場合の「実」とは、「行為」であって、例えば、「愛の実を結ぶ」とは、「愛の行為を実行 する」ことに他なりません。それは、ガラテヤ書5章を読むと分かります。そこに、「肉の行い」と 「御霊の実」が同一の条件で対比できるものとして並べられています。ここで比較されているこ とは、肉すなわち古い人による人間の行いと聖霊による人間の行いです。また「自分の肉のた めに蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り 取るのです。」(ガラテヤ 6:8)にも、蒔いたものによって異なる実が結ばれ、その実を刈り取る ことが示されています。このみことばも「実」は人間によることを明らかにしています。
品性と行為の関係は、「罪の性質」と「罪」の関係と同一です。良きサマリヤ人は、はじめから
愛の品性を持っていました。しかし、強盗に襲われた人に出会って、愛の行為を行いました。 その愛の行為が御霊の実です。御霊の実と呼ばれる理由は、その人間の行為が聖霊に導か れて行われるからです。
ガラテヤ人への手紙に書いてある御霊の実ということばは、ギリシャ語の単数で表現されて
います。その理由についてジョン・ウェスレー(62)は、「『(肉の)働き』この働きは複数形が用い られている。それは、肉の働きは互いに相違し、互いに相容れないものであるからである。し かし、『御霊の実』という用語は単数形(22節)である。すべてが一つに結び合っているからで ある。…『愛』は他のすべてのものの根幹である。」と解説しています。御霊の実は、愛(コリント T 13:4〜8)という一つのものであって、その枝分かれが様々な姿をとるのであるという考え です。A・B・シンプソン(63)は、ガラテヤ人への手紙5章22節、コリント人への手紙第一13章 4節以下の内容は、聖霊に満たされると、その心から湧き出してくるのだとしています。アンドリ ュー・マーレー(64)も同様の考えを示しています。これらの人々のほとんどは「聖霊の実とは何 であるか。」ということの説明に終わっており、「実を結ぶとは何であるか。」ということを示して いません。
ヒルス(65)、アボット(66)などの論は、実そのものが人間に与えられてしまうとするもので
す。これらの人々の論は、その内容をよく検討してみると、聖霊の実が人間の心に注がれると いう考え方であって、人間が聖霊によって実を結ぶという考え方ではありません。
ドーマン(67)は、「御霊の実とは、聖霊の導きに従って生きる人の内に形成される『性格』で
ある。」とします。性格は、人間の心の姿を示すものです。それは品性よりも広い領域の概念で あって、品性は性格の一部です。この説も御霊の実自体は、神から与えられるものになりま す。またモンテギュー・グッドマン(68)は御霊の実は人間の、経験の領域、行為の領域、性格 の領域において結ばれるとし、その内容としてパウロが解説したことばを区分して、これらの領 域に当てはめています。しかし、実を結べという命令に応える、ということを考慮するとこのよう な当てはめかたは的はずれであると考えられます。性格は命令されても人間には応えることが できない領域であるからです。
人間がどのようにした時に聖霊の実を結んだと言えるのかということを考える必要がありま
す。ガラテヤ人への手紙5章でパウロは御霊の実と述べたそのすぐ後に、沢山の枝分かれ、 つまり「御霊の実は、愛、喜び、…」と書いています。その枝分かれのひとつひとつの下に、ま た具体的に実行された行為の小枝が記されべきです。個人の段階では、「私は、いつ、どこ で、だれに、なぜ、どのような愛を行った。」となります。この「誰に」には、「神に」、「隣人に」、 「自分自身に」の三つが入ることが記されています。
詳訳聖書(69)では、前述のガラテヤ人への手紙五章二十二節が次のように訳されていま
す。「しかし〈聖〉霊の果実〔すなわち聖霊の内住によって成し遂げられる行い〕は、愛、喜び〈喜 悦〉、平和、忍耐〈平静な心、寛容〉、親切、善意〈慈善の心〉、忠実、〈柔和、謙そん〉優しさ、自 制〈自己制御、節制〉です。」この訳の聖書も、聖霊の実とは行いであることを、そのまま述べ ています。
品性は、聖霊によって与えられるものです。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私
たちの心に注がれているからです。」(ローマ 5:5)しかし、御霊の実は与えられるものではあり ません。それは、与えられた自由意志をもって行われなければなりません。罪が人の行為であ るように、御霊の実も人の行為でなければならないのです。
「種は、神のことばです。…良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心
でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ 8:11〜 15)ここに単に、行為、業、所行などと言わず、結実という理由があります。
ホリス・F・アボット(70)は「実とは神が生み出されるものです。」と「実」を神に帰しています
が、その意味合いを正しく把握する必要があります。実は内住された聖霊に導かれてその人 が行う行いを指しているという意味で、その実の起源を神に帰してもよいのですが、「あなたの 信仰があなたを救ったのです。」(ルカ 7:50)とイエスが言われたように、「実」は人間に帰され なければなりません。「実」が人間の行為であることは、バプテスマのヨハネが、「悔改めの実」 としてこういうことをせよ、と人々に教えていることからも分かります。例えば、ヨハネは「下着を …分け与えなさい。…決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。…金をゆすっ たり、無実の者を責めたりしてはいけません。」と、「悔改めの実」と自分が述べたことの内容を 説明しています。この「実」が人間に帰されることは、イエスの最後の晩餐の説教にも述べられ ています。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。…ならばそういう人は多くの実を結 びます。…あなたがたが多くの実を結び…あなたがたが行って実を結び、そのあなたがた実が 残るため…」(ヨハネ 15:1〜17)ヨハネの福音書のこの部分を読めば、父なる神が実を結ぶた めの環境を整えて下さること、実を結ぶためのいのちが御子イエス・キリストから供給されるこ と、「実」は人間が結ぶものであって、その内容は「あなたがたが互いに愛し合うこと」すなわち 行いであること、その最高のものは「友のためにいのちを捨てること」であることが分かります。 そしてさらにやがて助け主、聖霊がおいでになり、その内容をあなたがたに分からせてくださる ということをイエスは続けて述べておられます。
この結実こそ、審判の日に、「良い忠実なしもべだ。」(マタイ 25:21)また、「あなたがたは、わ
たしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、…」(マタイ 25:35〜36)と言って頂けるか 否かを決定するものであって、人の側の功績として数えられるものです。
聖霊の満たしは、一度切りではありません。「彼らがこう祈ると、…一同は聖霊に満たされ、
みことばを大胆に語りだした。」(使徒 4:31)このとき集まっていた人々は、すでにペンテコス テの日に聖霊を受けた人が多かったと解されます。S・A・キーン(71)が自分の経験として語る 聖霊の盈満は、すべての人が受けることのできるものです。
前項で述べたように、現在は教会の時代です。これらの経験すなわち求道者として福音に接
すること、救われること、潔められること、御霊の実を結ぶことを、私たちは教会の関係の中で 得ることができます。
良い結果を得たことを示す「報酬、報い」、悪い結果を得たことを示す「刈り取り」自体を結実
と表現することがありますがそれは誤りです。私たちが良いことを行った故に神がよい結果を 与えられたことは「報われた」のであって、良い実を結んだのではありません。また悪しきことを 行って悪い結果に至った場合、悪い実を結んだと言うのではなく、「刈り取りをした」と表現する のです。
・成長
キリスト教においていう「成長」とは、ある人の「品性」、「知識」、「技量」などが、神の前にすぐ
れたものに変えられていくことを言います。神から預けられたタラントである聖霊によって注が れた「神の愛」(ローマ 5:5)を用いて、私たちが実を結ぶ、すなわち愛の行為を行うと、神はさら に二タラント、五タラントの愛を私たちの心に注いで下さるのです。それがすなわち成長です。 ロイ.S.ニコルソン(72)は、成長を人間に帰していますが、人間に帰すべき部分は結実で す。人間が善い実を実らせると、神がその人を成長させなさるのです。そして成長してさらに善 い実を結ぶことができるのです。
種は神の言葉、地は人の心です。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を
出して育ちます。地は人手によらず実をならせるもので、はじめに苗、次に穂、次に穂の中に 実が入ります。」(マルコ 4:26〜29)「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫で す。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと 多く実を結ぶために刈り込みをなさいます。」(ヨハネ 15:1〜2))「私が植えて、アポロが水を注 ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(コリントT 3:6)これらの聖言は、人間は自分で成 長するのではなく、神が成長させなさることを示しています。
聖潔は成長をもたらします。潔められずに成長を語る人々がいますが、潔めを受けること無
く成長を求めるのは、極めて困難な要求なのです。イスラエルの民がモーセに率いられてエジ プトを出、紅海を渡ったことは救いの経験の型と見なされています。それに続いたのは荒野の 旅でした。確かに、イスラエルは荒野の旅をしながら国家を形成したのです。エジプトで奴隷で あった人々は訓練されて、兵士となりました。しかし、霊的には、一向に前進せず、「イスラエル の家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間…、モロクの幕屋とロンパの神の星をかついで いた。…」(使徒 7:42〜43)とステパノがアモス書を引用して指摘した通りでした。
聖化の経験は、ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡ったことがその型であると考えられてい
ます。カナンの地を領有することが聖潔であると考えると、ヨルダンを渡ることはその最初の一 点に過ぎないことが分かります。
・後退することがあるという問題について
「聖書に描かれている個人の救いの生涯の展望」の図に、救われた後あるいは潔められた後
に戻ることがあると記しました。罪の性質を除かれ聖霊に満たされて送る生涯になぜ後退する ことが起きるのでしょうか。これは潔めに反対する人々や潔めに無頓着で教えられても求めな い人々には机上の空論のように見えるかもしれませんが、真摯に潔めを追求している人々に とっては、しばしば自らが経験し、あるいは兄弟たちのうちにそのような事例を見る現実の問 題です。ジョン・ウェスレー(73)は、「キリスト者の完全」の中でこの問題が問われていることを 取り上げ、「世には堕落することを不可能ならしむるほどの高い又強い程度の完全はない。」と 述べています。完全であったアダムすら誘惑されて罪に陥ったのですから、ましてかつて罪の 中にいた私たちはたとえ潔められたといっても、誘惑に負けることがあるのは当然です。
私たちが心しておかなければならないことは、結実の機会は後退の機会でもあるということで
す。摂理によって導かれ誰かを愛さなければならない状況に立ったとき、それはその人を寛容 に扱うことであったり、金銭を与えることであったり、病む人への慰問であったり、一緒に過ご すことであったり、いさめることであったり、叱ることであったり、その内容は様々でしょうが、そ れを行うことができれば善い実を結んだと神にお褒めをいただけるでしょうし、それを行わなけ れば残念なもの、与えられたタラントを用いなかったものと判断されます。
カナンの地は戦いによって勝ち取られました。カレブは「どうか今、主があの日に約束された
この山地を私に与えてください。」(ヨシュア記 14:12)と求めましたが、それは戦争によってとるも のでした。私たちが実を結ぶということには、大なり小なりの戦いが含まれています。
エステルはユダヤ人の危機に臨んで死を覚悟して王にとりなしをしなければなりませんでした。
モルデカイはその危機に秘められている神の前における意味合いを把握しており、「もし、あな たがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。し かしあなたもあなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時 のためであったかも知れない。」(エステル記 4:14)と述べています。私たちがたとえそのような 大きなことでなくとも、果たさなければならないことを果たさないと霊的に後退します。はじめは 「木の囲りを掘って、肥やしをやってみます」(ルカ 13:8)と扱っていただけるでしょう。しかし繰 り返し後退をつづけると、「切り倒してください。」(ルカ 13:9)と言われることになってしまいま す。
「実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、・・」(ヨハネ 15:2)
補足しますが、カルビン主義者は「ひとたび救いに与かってもその恵みから落ちることがあ
る。」ということに対して、「神が備えてくださったものは、いつ私は救いから落ちるかと心配して いなければならないというようなそんななさけない救いであるはずがない。救われたら決して恵 みから漏れることはないのだ。」といって反対します。その反対論の前半は正論です。私たち が与えられる救いも潔めもそれをいつ失うかびくびくしているようなものではありません。「霊に 燃え」(ローマ 2:10)「信仰の戦いを勇敢に戦い」(テモテT 6:12)「今から義の冠が私を待ってい る」(テモテU 4:8)のが私たちの信仰なのです。後退することがあるということは可能性として は存在しても、恵みによって生きる私たちは決して滅びることはありません。そしてまた後退し てしまった人も「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行い」(黙示 2:5)をするな ら神は直ちに恵みに帰らせてくださるのです。
・肉体の死と復活および携挙
やがてイエス・キリストの再臨がありますが、潔めに与った人は、死んでいた場合には復活
し、生きている場合にはそのまま、いずれの場合にも空中で主にお会いします(テサロニケT 4: 13〜17)。私たちの体は、主にお会いするときには、天の(霊の)体に変えられています(コリント T 15:42〜54)。それが「栄化」(コリントT 15:35〜43)です。そしてキリストとともに千年王国 の王として生きます(黙示 20:20)。
そこで、それぞれ結実の内容に応じて報いを受けます。イエスの約束には、天において受け
る報いのほかに、地においても報いを受けることが述べられています。報いは結実ではありま せん。信仰に生きた結果このようになった、という結果は報いについてのべていることが多いも のです。
千年王国のあと、しばらくの間のサタンとその追従者との問題がありますが、やがて最後の
審判があり、新天新地に天のエルサレムが下って、主と共にそこに住み、前項でも述べたよう に、讃美して永遠に至ります。
救われたけれども潔めに与っていない人はどうなるのでしょうか。その場合、カルビン主義者
達が主張するのと似ていて、死の直前が危機的瞬間となります。ある者は死の直前に潔めら れて死に主にお会いできるでしょう。しかし、潔められることなく死んだ人は主にお会いできな いでしょう。「聖くなければ、だれも主を見ることができない」(ヘブル 12:14)からです。
・救いに与らなかった人々
救いに与らなかった人々は、千年王国の後で復活し、審判の座に立たされます。そして、キ
リストを知らなかった人々は自分の罪のために、キリストを知っていて信じなかった人々はキリ ストを信じなかった理由で、滅びに定められます。
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