結実  

8. 結 語


 本書において、以下の内容の論証につとめました。
  ・人間がおかれているこの世界はどのようなものか
  ・人間とはどのようなものか、人間の構造と救いの必要な理由
  ・神が備えられている世界の歴史のプログラムとその時の流れの中における
   人間の救拯のプログラムはどのようなものか
  ・人間の救拯に聖霊はどのように関わっているか
  ・人間の救拯に教会がどのように関わっているか

 神が人間のために備えられた救いと潔めは、イエス・キリストの十字架の贖いを根拠に、価
なしに聖霊によって人間に与えられますが、それを与えられた人間には、聖霊の実を結ぶこと
が求められています。その聖霊の実を結ぶ場がすなわち教会であって、神から親が子供を預
けられて、その子どもの信仰、人格の形成に取り組むことが、親と子双方に与えられている教
会の関係であることを示しました。同様に、夫と妻の間に、牧師と信徒の間に、信仰と人格の
形成、聖徒の交わりがあります。

 神はその「人と人との間の関係」の中で働かれます。その関係の中において、神はご自身の
代務者をおかれます。それが新約の予言者であり、祭司であり、王です。救われた信者のとこ
ろに未だ救われていない人がやってきて、罪を告白してイエス・キリストを信じるならその人は
必ず救われます。潔められた人のところに、未だ潔めに与っていない人がやってきて、すべて
を神に献げて祈り「イエスの血は全ての罪から…潔める」(ヨハネT 1:7)と信じるならば、その
人は必ず潔められます。神はご自身が遣わした人を重んじなさいます。そこに、遣わされた人
に委ねられた神の権威があります。個人宗教は、教会の宗教に高められなければなりませ
ん。そのようにして建てられた教会こそ信仰の奥義です。

 神の愛は、確かに聖霊によって人間の心のうちに注がれますが、教会の関係の中でそれを
用いて現わさないと、地の下に一タラントを埋めておいた信者になります。私たちは、与えられ
た神の愛を、タラントとして用い、「良い忠実なしもべだ。」(マタイ 25:21)とほめられたいもので
す。

 潔められて、そのあとどうするのか?その答えがここにあります。潔められたなら、次に聖霊
の実を結ぶのです。聖霊の実を結ぶ場が教会であって、教会の建設こそが私たちに与えられ
ている課題です。そこにキリスト者の成長と喜びがあります。

 潔めは「分かった。」というだけのものではありません。実際に聖くなければならないのです。
愛はすばらしいとわかっても、愛がただちに行えるものではありません。それには訓練が必要
です。教会はその訓練を次の世代の子らに行います。するとその子どもたちは、親よりもより
完全に愛をあらわすことのできるものとなることが期待できます。本文中に述べたように、そこ
に「信仰の継承」の意味合いがあります。

 神から褒めて頂けるものは結実です。救いも聖潔も、イエス・キリストの贖いによって無償で
人間に与えられるものですから、救われること、潔められることは、天国に入る最低の条件で
あって、称賛に値するものではありません。

 もしも、私たちがカナンの地に入っても、カナンの全土をとらずにエリコのあたりでうろうろしな
がら生涯を終えてしまったら残念なことです。教会という場の中で結実と成長を繰り返すこと、
そこにカナン領有の型に示されている内容の本体があります。
 ルターは「救いの教理」を明らかにしました。ジョン・ウェスレーは「聖潔の教理」を明らかにし
ました。次に来るものは「結実の教理」であり、これらすべてに関わるものとして「教会の教理」
があります。

 聖潔は、結実において「神の栄光」を顕わします。
 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒め
です。」(ヨハネ 15:12)
「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために刈り込みをなさいます。…人がわたしにとど
まり、わたしもその人にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ 15:2〜
5)
「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなた方にも蒔く種を備え、それをふやし、あ
なたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(コリントU 9:10)





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