「同労者」第3号(1999年12月)       随想に進む  目次に戻る  読者の広場に戻る

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1996.8.27 から
ローマ人への手紙(第3回)

仙台教会 野澤 睦雄


 「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されま
した。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による義であって、それはすべての信じる人に与
えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21〜22)


 はじめに、前回の学びを要約します。
「救いの教理」の解説の最初の部分である「人間の罪について」学びました。これは言い直せ
ば、「何故福音が人間に必要であるのか」ということです。パゼット・ウィルクスによるローマ書
講演のこの箇所の分解は、私たちがその内容を理解する上において大変参考になりますの
で、ここに前回の学びの補遺として記載しておきます。

<補遺>…パゼット・ウィルクスの分解、「ローマ書講演」から
(1)異邦人の罪(ローマ1:18〜32)
・罪の原因は、人の神に対する態度の狂いである。つまり、
 @不義をもって真理をはばむ(1:18)
 A神を崇めずまた感謝しない(1:21)
 B神の栄光を変える(1:23)
 C神の真理を偽りととりかえる(1:25)
 D心中に神を認めることを好まない(1:28)
 E神の決定されていることを知りながら罪を行う。(1:32)
・罪の結果は
 @"義、罪"についてこれを推し量ることができない(1:18〜20)
 A思考が狂う(1:21〜22)
 B心が汚れる(1:23〜24)
 C身体を汚す(1:25〜27)
 D思念(マインド)堕落の結果、様々の罪を犯す(1:28〜31)
 E自ら自分の罪に定める(1:32〜2:1)
(2)ユダヤ人の罪(ローマ2:1〜3:8)
 <イ>ユダヤ人の責任(2:1〜16)
・神の審判は
 @真理に合致する(2:2) 
 A確実である(2:3)
 B憐れみに適合する(2:4)
 C怒りの日に行われる(2:5)
 D各人の行いに応じる(2:6)
 E善行には報償(2:7)
 F悪人Aは刑罰(2:8)
 G律法を有するユダヤ人には律法により、異邦人には異邦人の心の律法により(2:1〜15) 
  H福音に示された通りに(2:16)
 Iイエス・キリストによって行われる(2:16)
・ユダヤ人の有様は
 @人を審く(2:1)
 A審きを免れえると思っている(2:3)
 B神の寛容と慈しみとを軽蔑する(2:4)
 C頑なで悔い改めない(2:5)
 D不従順で神に従わない(2:8)
 E積極的に悪を行う(2:9)
 <ロ>ユダヤ人の有罪(2:17〜29)
   …罪の特権について有罪
 @選民であることについて有罪(2:17〜、28、29)
 A律法を有することについて有罪(2:17〜、23、24)
 B割礼を受けていることについて有罪(2:18〜、25、27、29)
 C道徳上の"師"たる地位について有罪(2:19〜、21、22)
 <ハ>ユダヤ人に関する疑義(3:1〜8)
 @ユダヤ人の長所は何か(3:1)
 A割礼の益は何か(3:1)
 B彼らの不信のため神の真実が損なわれるか(3:3〜4)
 C彼らの不義が神の真実を顕わすのであるなら、これを責めることは不義なのか(3:5〜6)
 D彼らの偽りによって、神の真理が顕わされるのであるなら、どうしてこれが審かれるのか
  (3:7〜8)
 Eそもそもユダヤ人はすぐれているのか(3:9)
(3)結論…ユダヤ人も異邦人も皆罪人である(ローマ3:9〜19)
 @人は性質上で皆罪人である(3:10〜12)
 A人は言葉の上で皆罪人である(3:13〜14)
 B人は行為の上で皆罪人である(3:15〜18)

 神は実に長い時間をかけて人間に"人間の罪"を示されました。旧約聖書全体が罪の教示で
あると言っても過言でありません。
「私は罪を犯しました。」と認め、罪の告白をすることが救いの門口です。多くの人は、「ええ、も
ちろん私は罪人ですよ。」とは言っても、「私は罪を犯しました。」とは言いません。「私は弱い者
です。どうか助けて下さい。」とは言っても、「私は罪を犯しました。」とは言いません。
 新約の基準に置き換えられた律法が、『それは罪です。』と指摘することを行ってしまったと
き、「私は罪を犯しました。」と、"イエス・キリストが遣わした人の前で"告白することが、神に義
とされる道です。
 なぜ律法が必要なのでしょうか。それは人間が自分の罪を悟り、頭を下げてイエス・キリスト
の贖いに与る以外に救われる道がないことを悟るためです。
 これがパウロの言う"ユダヤ人のすぐれたところ…かれらは神の言葉を委ねられています。"
と言っている点です。

2.2信仰によって義とされることについて
 私たちは「救われました。」といって証詞しますが、このイエス・キリストによって"救われる"と
いうことが、信仰による義が与えられることなのです。その内容をパウロは、ローマ人への手
紙3章21節から5章21節までかけて解説しています。大別すると、その部分は以下の4区分
で構成されています。
・信仰による義…その定義「イエス・キリストの贖いによる義」(3:21〜26)
・信仰による義…それを受ける道は「信仰」(3:27〜4:25)
・信仰による義…それを受けた者の神との関係は「愛」(5:1〜11)
・信仰による義…それを受けた者に与えられる新しい「命」(5:12〜21)

 2.2.1信仰による義…その定義「イエス・キリストの贖いによる義」(3:21〜26)
 パウロはここで以下のような内容を示しています。
・律法とは別の神の義であること(3:21)
・律法と預言者(旧約聖書全体)によってあかしされた神の義であること(3:21)
・イエス・キリストを信じる信仰によって、信じるすべての人に与えられること(3:22)
・神の恵みによって、価なしに(つまり代金を払うことなく)与えられること(3:24)
・神が忍耐をもって見逃して来られた人間に、「イエスの血というなだめの供え物」を示して、
「神ご自身の義」を示すものであること(3:23〜26)

 2.2.2信仰による義…それを受ける道は「信仰」(3:27〜4:25)
 信仰による義を受ける道は信仰であることを、パウロは以下の例を用いて説明しています。
@行いの原理と信仰の原理の比較
・義とされるのは信仰の原理による(3:27〜28)
・割礼のある者もない者も、全て信仰によって義とされる(3:29〜30)
A信仰の原理は律法を無効(廃絶)するものか
・信仰の原理はかえって律法を確立する(3:31)
Bその例証(1)…アブラハムの例:行いの原理ではなく信仰の原理の例証
・働きの無い者に与えられるからこれは「報酬」ではなく「恵み」である(4:1〜5)
Cその例証(2)…ダビデの例
・行いとは別の道で神に義とされる(4:6〜8)
D割礼のあるものにだけ与えられるのか
 …割礼という儀式の有無でなく信仰のみ によって与えられるということの立証
・アブラハムはまだ割礼を受けないうちに その義を得た(4:9〜15)
E世界の相続人アブラハム…信仰の手本
・アブラハムの信じ方にならって、イエス を死者の中からよみがえったと信じるすべての者
に、アブラハムと等しい「義」が与えられる(4:16〜25)
 
 そのアブラハムの信じ方は以下の内容です。
 ――自分の絶望的な状態の認知
 (子を産むことに対してはもう死んだ体である。)
 ――神の約束実現への信仰
 (神は死んだ体を復活させる力があると信じた。)

 2.2.3信仰による義…それを受けた者の神との関係は「愛」(5:1〜11)
 パウロは、信仰による義を受けた者と神の間を以下のように解説します。
・神との平和を持つ(5:1)
・神の栄光を望む(5:2)
・艱難を喜ぶ(5:3)
 その理由は、神が艱難を与えたもうのは、私たちの内に練られた品性を生み出すことであっ
て、それが希望につながっているからです。
・聖霊によって神の愛が私たちの内に注が れる(5:5)
・私たちに神の愛が示されている(5:6〜9)それは、私たちが罪人であった時に、イエス・キリスト
が私たちのために死なれたことによって示されています。
・御子の死によって神と和解させられた私たちは、御子の命によって救いに与る(5:10)
・神を大いに喜ぶ(5:11)

 2.2.4信仰による義…それを受けた者に与えられる新しい「命」(5:12〜21)
 信仰による義を受けた者には、同時に新しい命が与えられることが示されています。
・アダムひとりから、すべての人間に死がもたらされたが、イエス・キリストひとりによって、すべ
ての人間に「新生の命」がもたらされた(5:12〜19)
・律法は罪を明らかにするだけの役割しか果たさず、かえって罪を増し加えるものとなったが、
恵みはそれを越えて満ちあふれた(5:20〜21)
 以上から、「救われる」とは教理上、以下の2つの重要な事項を含んでいることが判明
しました。
   1.義認     2.新生
 神はイエス・キリストの十字架によって、人にそれを示しておられます。人は信仰によっての
み、それに与ることができます。救いに与かった人は、神と愛の関係にはいります。

<今回の学びの結び>
 十字架に、神は罪が必ず罰せられなければならないことを示され、そこに神の義が顕わされ
ています。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架上で死なれ、それによって神
はご自身の私たちへの愛を示されています。
 頭を下げて、「私は罪を犯しました。」と十字架のもとに行く者を、神は救って下さるのです。
「私は罪を犯した。」と知っている兄弟姉妹、それに対する悔改めは、「事務的に」行わ
れなければなりません。罪の実感がないから、涙が沸かないからと留まってはなりませ
ん。それは、神が遣わされた人の前で実行されさえすればよいのです。罪の告白に当た
って大切なことは、「私は罪人です。」と言うのではなく、「私は、いつ、どこで、だれに対
して、どのような罪を、なぜ、どのように…行ったか」を述べることです。
 それを実行すると、不思議なように神は、「私のためにイエス・キリストが血を流され
た。」と信じることを許されます。イエスが私の罪のために死なれたことを「経験」によって
知ることは、神の愛を知り、神を愛する者となる道です。
 その時、私たちは「新生の命」と「神との平和」を持ち、「キリストの平和」を心の内に持つもの
となるでしょう。そこにキリスト者の幸せがあります。





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