「同労者」第6号(2000年3月)   読者の広場に進む  目次に戻る  Q&Aルームに戻る

証 詞

仙台聖泉キリスト教会  婦人伝道師  山本 和子


「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべて
の悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネT1:9)


 私の生まれた所は、東京都足立区千住旭町三十六番地です。数件の貸家を持った下町の
家でした。両親は、両方とも養子で、母は幼い頃田中家に来て、一人娘として育てられてきまし
た。父は祖父が鉄道に勤務していましたので、鉄道の教習所で父を知り、養子縁組として母と
結婚したそうです。 私は祖父母と女姉妹四人、男一人という家族の次女として生活していまし
た。
 小学校は足立第四小学校で三年生まで通学しました。太平洋戦争が激しくなり、父は鉄道の
軍属として、ジャワに出征して行きました。私は下の妹と共に縁故疎開で母方の伯父伯母の家
に行きました。住居は久喜駅の官舎でした。空襲警報が鳴ると防空壕に入りました。そして東
京の空が焼夷弾で赤くそまるのを眺めては、祖父母や母が心配でなりませんでした。六年生
になった時、伯父が他の駅に転勤になり、父の生家あった、埼玉県羽生に、疎開していた祖父
母と母や姉弟のいる三田ヶ谷村に転校しました。そして数ヶ月後、敗戦を迎えました。私は、古
材木で建てられた住居で母が病気の祖母を抱え、子供四人を育てるために、畑で働く姿を目
の当たりにしました。
 祖父母は孫達を大切にしてくれておりましたので、祖母の病気は私にとって、つらいことでし
た。早く秋吉(父)が復員してこないかと待ちわびていた祖母も終戦の年の秋に亡くなりました。
 私は女学校に入学しなければならない時になりました。そこで父方の伯父伯母の家から、熱
海女学校に入ることになりました。私はまた、家族から離れることになったのです。段々家庭の
事情も分かるようになっておりましたので、母に「いやだ。」と云うことが出来ませんでした。伯
母が迎えに来る日、時計を見ながら、あと何時間で母や家族と別れなければならないという思
いで心が悲しみでいっぱいになったことを思い出します。
 熱海市立女学校に入試をして、無事、入学が出来ました。伯父も来宮のささらが台の鉄道官
舎に住んでいました。そこから一つ山向こうの桃山というところに学校があり、通学は山を降り
熱海市街を通り、桜並木の女学校に行きました。
 田舎から出て来た私にとって、学校は新鮮で楽しいところでした。けれども伯父伯母には子
供がいませんでした。それでなかなか私のことを理解出来ませんでした。大勢の家族から出て
来た私に一つ部屋を与えてくれました。一人で床につくのも本当に淋しいことでした。伯父伯母
は大変仲が良くて私が中に入っては悪いかなーという思いも出て来て、ひたすら家族のもとに
帰りたいと云う気持ちに駆られる毎日でした。学校から帰ると家に鍵がかかっていて入れなく
て、庭の濡れ縁に坐って夕方まで待つこともありました。「あら。和ちゃんのいること忘れてしま
ったー。」と明るく云う伯母の顔を見ながら、心が激しく動きはじめるのを知りました。―― 別
れの悲しさや、淋しさと共に強い、憎しみや嫉妬の気持ちが心から湧き上がって来るではあり
ませんか。――
 ようやく父がジャワから帰って来ました。まもなく、北浦和に落ち着いて、家族全員の生活が
始まりました。楽しいはずの家族との生活。けれども私はその八人家族の団欒に入ることが出
来ませんでした。何か気に入らないと無口にふくれて、母を苦しめていました。
 私は竹台女学校に転校して高校二年生になっていました。当時ポケット聖書連盟の伝道会
が各所で行われていました。そんな時、両国国技館で持たれた集会で信仰を持った清水さん
が教室の窓辺で私に声をかけてくれました。
「田中さん。貴女が一番信頼できるものはなに?」心の中で自分自身と答えたいと思いました
が、私は父母と答えました。友は「何時か、お父さん、お母さんは死んでしまうのよ。」といいま
した。そして翌日の集会にさそわれました。
 そこは有楽町駅近くのインマヌエル丸ノ内教会でした。集会に出席して、まず感じたことは、
来て良かったと云う思いでした。礼拝後神学生の方が、創世記を開いてお話をして下さいまし
た。
 今思うと、その説明して頂いた"人間が神によって創造されたこと、神が「はなはだよかり
き。」と仰せられたように人間は良いものに造られたのに、人間は神様に背いて罪を犯してしま
ったこと、その罪から人々を救うためにキリスト様が十字架にかかって死んで下さったこと、き
たない心を救って下さる。"と云うことを私は理解することが出来たのです。利己主義で、自分
ばかりを守る自らのきたない心を、私はよく分かっていたからです。
「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべて
の悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネT1:9) の御言を、お約束として、悔い改めの
祈りを神学生の方とすることが出来ました。
 それは1950年6月18日です。
 家に帰り両親に、いま迄の我が儘をお詫びしました。姉の持ち物から、そっと自分の引き出
しに入れてしまった物などを返し赦してもらいました。
 それから竹台高校では、友から友へと伝道して、多くの人々が丸ノ内教会に出席して救いの
恵みを受けました。
 現在、当時の学友が私を含め三名、下級生の男子一名が伝道者として奉仕しています。な
んと素晴らしい働きがなされたことでしょう。
 戦中、戦後と昭和一桁生まれの私の人生をかえりみます時、神様の救いが心の中にもたら
されたことが全てでありました。
 「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(コリントT15:10)
 



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