「同労者」第6号(2000年3月)  本・讃美歌紹介に進む  目次に戻る  読者の広場に戻る

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1997.4.22 から
ローマ人への手紙(第6回)

仙台教会 野澤 睦雄


  「今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。」(ローマ6:22)

 前回の学びはこの「聖潔」についてでした。クリスチャンとなって生きる上において、"潔め"は
その最もすばらしいものであり、かつ何かを築き上げる場合の基礎となるものであって、これな
しには価値あるものを築くことは困難であると私は信じます。なぜなら潔められていないこと
は、心中にキリストを主とし王とすることを拒むものを持ちながら人生を過ごしていることを意
味しているからです。そのような場合、確かにあわれみによって死の直前に潔められて天国に
迎えて頂けるかもしれませんが、その人生は虫食いの植物、火に焼ける建物となるに違いあり
ません。私たちは救いの恵みに与る前も、何なく生活していました。それは心の中に霊的問題
に対する覚醒が与えられていなかったためです。けれども教会に近づいたときその覚醒が与
えられて救いを求めるものとなりました。同様に潔めの問題について真剣に取り組む人々や集
会などに触れるならば、私たちは覚醒されて潔めの必要を自覚することでしょう。確かに多くの
クリスチャンを考えて見るとき、潔めを頂いていないことが普通であると思われます。ですから
この問題に当面するとき、潔められていないことを罪を犯しているかのように考えず、「潔めら
れよ!!」と恵みの手が延べられていると考えるべきです。それは「救い」の恵みに与るときも
同じでした。神に反抗し罪を犯している私たちに、恵みとして救いの手が差し延べられたのでし
たから。
 パウロはユダヤ人にも異邦人にも罪があり、救いが必要であることをまず示しました。そして
行いによらず、信仰によって義とされる道が開かれたことを示しました(ローマ4:24〜25)。
 そして5章には、信仰によって義と認められた人々の変化と特権について記しています。それ
らは、神と平和の関係にあること(5:1)、神の愛が心に注がれていること(5:5)、神を喜ぶものとさ
れていること(5:11)、新しい命が与えられていること(5:18)などです。そしてこう付け加えました。
「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし罪の増し加わるところには恵み
も増し加わりました。」(5:20)と。

 この言葉を受けて、聖潔への発題がなされます。
「恵みが増し加わるために私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」(6:1) そして、絶
対にそんなことがあってはならないとして以下の理由を示しています。
@イエスにつくバプテスマを受けたのは、キリストの死と甦りに与り、キリストにあって新しいい
のちに歩むためであるから。(6:3〜4)
A私たちの古い人が十字架につけられたのは罪の体が滅んで、罪の奴隷ではなくなるためで
あるから(6:6)。そして代わって義の奴隷となったのであるから(6:18)。
 ですから「今はその手足を義の奴隷としてささげて聖潔にすすみなさい(6:19)。」とパウロは勧
めるのです。

 ここで一つの問題が発生します。「あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては
死んでいるのです。それは・・死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶ
ようになるためなのです。(7:4)」が、しかし律法がやってきたときは義であろうとして歩むクリ
スチャンのうちに義ならざるものが存在することが明かになります(7:13)。
 それ故、律法は霊的なものであることは分かっており、義に生きようとしていながら罪の下に
あるものは罪の虜になっていることが明らかになります(7:14)。パウロはそれを「私のうちに住
みついている罪(7:17)」、「私のうちに住む罪(7:20)」と説明します。義に生きようとする新生のい
のち(5:18)と私のうちに住み着いている古い人(6:6)の罪の性質が残されており、相互いに戦う
葛藤がそこに存在します。その葛藤は両者が存在し続ける限り続きます。異邦人クリスチャン
である私たちは、この古い人の問題がローマ人への手紙のこの部分に挿入されていることに
必然性を感じます。つまり最もふさわしい場所に挿入されていると考えられるのです。ロ−マ人
も異邦人でありましたから、救いの恵みに与った後に本当に神の前に正しく生きようとする思
いを持ったであろうと推察されます。

 「イエスにあるものが罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエ
スにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです(8:1
〜2)。」とパウロは、その葛藤からの解放を宣言します。この聖言の意味するところは、
いのちの御霊は私たちのうちにある古い人すなわち罪の性質を聖絶し(潔め)、御霊が
私たちの導き手となることです。御霊は謙遜な方であって、私たちを支配するよりもむしろ
け主指導者(後ろべで語る声(イザヤ30:20〜21))として私たちを導かれるのです。

 この御霊は、
@いのちの霊であって、私たちを罪と死に導く肉の思いから解放し、神をお喜ばせするものと
させ(81:1〜13)、
A神の子、相続人とさせ(8:14〜17)、
B望みと慰めをあたえ(8:18〜25)、
C私たちを助けて祈ってくださり(8:26〜27)、私たちを勝利させる(8:28〜30)
お方です。


 本日の学びとして、聖潔の教理(6:1〜8:39)について、もう少し考察を加えることにいたしま
す。
3.4聖潔の教理に関する考察
 3.4.1聖潔に至る過程
 ローマ人への手紙はこの聖潔に至る過程をよく示しています。
  ・救いに与る
→ ・義しく生きようと務める
→ ・罪に負ける
→ ・悔い改めて今度こそは罪に負けない
   と「決心」する
→ ・義しく生きようと務める
→ ・罪に負ける (これを繰り返す)
→ ・「決心」では罪に勝てない自分を悟
    る
→ ・自分の本質は罪であると気づく=
   「潔め」が必要であると悟る
→ ・聖霊による解放を求める=「潔め」
   を求める
→ ・解放が与えられる=「潔め」られる
 パウロは、「決心」の位置に、「律法」と記しています。

 3.4.2聖潔の3つの意味
 聖潔には以下の3つの重要な意味合いがあります。
@聖絶、汚れの除去(純潔化)
・「しみや、しわや、そのようなものの何  一つない、聖く傷のないものとなった  栄光の教会
…」(エペソ5:26〜27)
しみやしわのない状態は、罪が根絶し尽くされていないと、そうであるとは言えません。
・「(キリストの)血は…私たちの良心を きよめ」(ヘブル9:14)、「血を注ぎ出すことがなければ、
罪の赦しはない」(ヘブル9:22)とのべられていますが、血が必要であるのは聖絶に対応していま
す。
・「あなたはかれらを聖絶しなければなら ない。」(申命記7:1〜6)
出エジプトのときのカナンは、私たちの潔めの型であるとされていますが、その型の示している
意味合いにおいて、「かれら(カナン人)」は、私たちの中にある「罪の性質」を示すものです。で
すから、この命令は、私たちの内にある罪を聖絶することを意味します。
・「あなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(エゼキエル36:
26)
 石と肉ということばで対比されていますが、この場合肉の心は聖霊によって生かされた新しい
命の宿った心です。石の心は「古い人」「罪の性質」を示します。
 A献納
・「それら(青銅の火皿)は、彼らが主の前にささげたので、聖なるものとなっている。」(民数記
16:35〜38)
神にささげ、神の所有となったものは聖いのです。
・「…供え物を聖いものにする祭壇…」(マタイ23:19)
"祭壇が供え物を聖くする"と表現されていますが、神に捧げられたものが聖いということと同じ
意味合いで述べられています。
 B神の聖の付与
・「あなたがたの以前の生活ついて言うな らば、人を欺く情欲によって滅びていく古い人を脱
ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって
神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:22〜24)この新しい
人を着るとは、神の義と聖とが私たちに分与されることに他なりません。
・「…聖霊によって、神の愛が私たちの心 に注がれている…」(ローマ5:5)
神の品性である「愛」も私たちに分与されるのです。それによって私たちは、愛することができ
るものになります。

 3.4.3古い人(6:6)、肉(7:5、18、25、8:3〜13)、私のうちに住む罪(7:17、20)とは何である

 これらは、「生まれながらの人間」(コリントT2:14)、「肉に属する人」(コリントT3:1)、「罪のからだ」
(ローマ6:6)、「死のからだ」(ローマ7:24)など沢山の表現がなされていますが、すべて同一のもの、
すなわち私たちの内にある「罪の性質」、「原罪」をさしています。
 人間は、「霊」「魂(心)」「肉体(体)」の三部分から構成されていますが、それらが完全に一体
である有機体となっています。しかし、「霊」こそが人間に「我」という自覚を持たせるものであっ
て、霊が人格そのものです。罪の本質は「霊」に存在します。つまり「罪の性質」は、魂や体に
在るのではなく、霊の内に存在します。
 新生のとき、新しい命が霊のうちに与えられますが、罪の性質はそのまま生き続けるので
す。そこに「潔め」の必要性があります。
 潔めとは、その「我」が潔められるのです。「古い我」=「罪の性質」はイエスとともに十字架に
死んで、「新しい我」が復活のイエスとともに生きるのです。

 3.4.4「いのちの御霊の原理が罪と死の原理からあなたを解放する(8:1)」の意味は何か
 「解放された」と言えるためには、罪の性質が除かれていなければなりません。なぜなら、罪
の性質を持ちながら全く罪を犯さず義に生きるためには、外から来るもの(誘惑)と戦うのでは
なく、自分自身の内なる戦いが絶えず起きてしまいます。その状態はとても解放されたなどと
呼べるものではありません。解放は「古い人」が「聖絶」されていることが条件です。
 キリスト者の実態は、潔められた後にも、時々神の前に悔い改める事態が存在する可能性
があります。そのことの対応として、「罪」と「誘惑」の違いを見分けることができるようになるこ
とが大切です。
 「罪」は意志決定にあります。ですから「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫
を犯したのです。」(マタイ5:28)というイエスの言葉は、体が実行していなくても、心で姦淫する決
断をしたとき罪になることを意味するのです。この原則は、殺人、盗み、偽り、貪欲などなどす
べての罪に適用されます。この原則をもって、自分の心を観察するならば、これは「私は誘惑
にあっている」「私は罪を犯した」という判断がつきます。誘惑は絶えず続くことでしょうが、その
段階で敢然とそれを棄て続けるなら、聖霊の解放を味わうものとなるでしょう。

 3.4.5奴隷の霊と子としての霊(8:15)とは何か
 奴隷の子はハガルの子であって、同じアブラハムから生まれた子どもですが、聖霊による新
生と更新(テトス3:5)が全うされていない状態を示します。(ガラテヤ4:19〜5:1)
 聖霊の更新が完成されるとき、私たちは「自由」を得ます。パウロは律法によって潔く生きる
ことはできないことを示し、ハガルの子を引用しています。私たち異邦人の経験では、私たち
が神に自らの霊(自我)ならびに魂(心)を明け渡すとき、すなわち自分(自我)の行為として潔く
生きようとがんばっていることをやめて、聖霊の内住の力に委ねるとき実現します。
 実際には、神に不従順を指摘された各人ごとに異なるある事柄を悔い改めて、神に従うこと
を実行したとき、逆に自由を得る不思議を経験します。そこに「キリスト者の自由」があります。

 3.4.6私たちの霊のあかしと御霊のあかし(8:16)とはどういうことか
 人間は自分を観察することができます。自分で自分を観察し、「確かに私は、イエスを信じて
いる。」「確かに私は、あの日を境に、新しい命に生きている。」と言えることが救いについての
私たちの霊のあかしです。「確かに私は潔く生きている。私の行動の原理は愛だけになった。」
と言えることが、潔めに関する私たちの霊のあかしです。聖霊のあかしは、私たち自身がどの
ようなものであるか"私たちの内に住んでおられる聖霊が直接魂の内に語ってくださること"で
す(コリントU1:22)。それは時には、私たち自身の思いとは違うことがあります。けれども、「あな
たは確かに聖い。」と語って下さるのです。

 3.4.7御霊のとりなし(8:26〜27)
 「シモン、シモン。…わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りまし
た。…」(ルカ22:31〜32)これはイエスが受難の直前にペテロに語られた言葉です。私たちはイエ
ス・キリストが同様に今も私たちのためにとりなしをしていて下さることを知っています。「キリス
トは…祭司の務めを持っておられ…、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことができ
ます。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:
24〜25)にそれが示されています。
 同様に聖霊ご自身も、私たちのためにとりなしをしていて下さるのです。これは私たちがあま
り知らないでいる聖霊のお働きです。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私
たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)

 3.4.8いのちの御霊の解放(8:2)のもたらすもの
 これは、今までの学びのまとめです。いのちの御霊の解放のもたらすものを箇条書きにする
と以下のようなものです。
@自由(ローマ8:2、ガラテヤ5:1) 
A「アバ。父」と呼ぶことのできる子の霊
  (ローマ8:15、ガラテヤ4:6)
B聖霊のあかし(ローマ8:16)
C相続の約束と望み(ローマ8:17〜18)
Dとりなし(ローマ8:26)
E勝利(8:31〜39)

<今回の学びの結び> 
「まして天にいます汝らの父は、求むるものに聖霊をたまわざらんや」(ルカ11:13、文語訳)
 

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