「同労者」第7号(2000年4月)  紙上メッセージに進む  目次に戻る  読者の広場に戻る

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1997.11.25 から
ローマ人への手紙(第7回)

仙台教会 野澤 睦雄


 「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く
所は永遠のいのちです。」(ローマ6:22)

 「聖潔」についての学びを続けています。前回は、3.4聖潔の教理に関する考察(ローマ6:1〜8:
39)として以下の項目を学びました。
・聖潔に至る過程
・聖潔の3つの意味
 @聖絶、A献納、B神の聖の付与
・古い人(6:6)、肉(7:5)、私のうちに住む罪 (7:17、20)とは何であるか
・「いのちの御霊の原理が罪と死の原理か らあなたを解放する(8:1)」の意味は何か
・奴隷の霊と子としての霊(8:15)とは何か
・私たちの霊のあかしと御霊のあかし (8:16)とはどういうことか
・御霊のとりなし(8:26〜27)
・いのちの御霊の解放(8:2)のもたらすもの

 「潔め」は「救い」の経験と同様に明確な転機的経験であって、本人が自分の内になさ
れた神の聖業による変化に必ず気づくものです。確かな救いの経験をし、光の中を歩んで
いる人は、「救われる以前の私はこういう者でありましたが、救われてこのように変わりまし
た。」と言える証詞をもっています。同様に確かな潔めの経験に導かれ、光の中を歩んでいる
人は、「潔められる以前の私はこのような者でしたが、潔められてこのような者に変わりまし
た。」という証詞をもっています。それが"わたくしの霊のあかし"に根拠を与えるものです。

 今回は、はじめに、3.4聖潔の教理に関する考察(ローマ6:1〜8:39)の続きを学びます。

 3.4.9聖潔の実(ローマ6:22)
 聖潔の実について少しだけ触れておきます。「聖潔の実」は聖霊が結ばさせて下さるもので
あるので、パウロがガラテヤ人への手紙に「御霊の実」(ガラテヤ5:22〜23)と呼んだものと同一で
す。
「実」を「品性」と定義している書物が多いように見受けますが、聖書をよく読んでみると「実」は
「行い」であることが分かります。もう少し詳しく言うと"行いによって自分の品性の姿を顕わす
こと"なのです。ガラテヤ人への手紙の中で(ガラテヤ5:16〜23)、パウロは「肉の行い」と「御霊の
実」を対比させています。ある事柄を比べて二つのものを提示する際に、種類の違うものを並
べる人はいません。もしそんなことをしたら、それを見聞きした人が自分の主張を受けいれる
はずがないからです。ですからパウロがガラテヤ人への手紙に「実」と書いた内容は「行い」で
あると断定されます。
 前回の学びの3.4.2項のBにおいて、聖潔には神の聖性が私たちに付与されることが含まれ
るとのべましたが、「あなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神に
かたどり造り出された、新しい人を身に着る」(エペソ4:23〜24)ことによってそれが実現します。
その神にかたどりされた義と聖の性質が、確かに自分の内にあることを行いによって顕わす
のです。それがまた「神の栄光を現す」(コリントT6:20)ことでもあるのです。
 パウロはコリント人への手紙の中で、救われたままの人は肉に属す(コリントT3:1〜3)と解説し
ています。そして御霊に属する人と対比させ、肉に属す人には、ねたみや争いがあることを指
摘しています。コリント人への手紙第一3章3節とガラテヤ人への手紙5章20、21節を対比し
てみると同じ内容を両方の教会に指摘していることが分かります。
 私たちも自分の結んでいる実が肉に属するものか、御霊に属するものか見分け、御霊に導
かれることを求めるべきです。

4.結実の教理に関する解説 (ローマ9:1〜15:33)
 パウロはこの手紙に、まず人間の罪とその赦しと新生すなわち「救い」と言われていることを
書きました。次に人間の罪深い性質とそれからの解放、すなわち人が罪の性質を除かれて実
際に潔いものとなり、潔い生活をすることに関する入り口つまり「聖化」あるいは「潔め」につい
て書きました。
 これから学ぶ箇所には、「潔められた後、どのようになるのか、何をすればよいのか」
すなわち「聖霊の実を結ぶこと」が書かれています。
 この学びの初回において述べましたが、ローマ人への手紙八章の終わりまでは、ひとりの人
間の「救い」と「潔め」が中心であり、「神と私」だけの関係を連想させますが、ローマ人への手
紙9:1〜15:13をよくよく読んでみて感じることは、神様だけでなく周りに他の人がいることです。
私たちは神と私だけの関係では聖霊の実を結ぶことはできず、「神、私、隣人」の三者の関係
の中においてはじめてそれを結ぶことができることを意味しています。
 ルターはローマ人への手紙1〜5章を世に紹介しました。それは「信仰義認」として知られて
います。ジョン・ウェスレーは6〜8章を世に紹介しました。それは「キリスト者の完全」として知
られています。
 残された部分、9章以下が新しく紹介されようとしています。それは「結実の教理」であり、「福
音と教会の関係」です。

4.1イスラエル人の不信仰の意味合いについて  (9:1〜11:36)
 結実の考察をはじめたとき、パウロの心に浮かんだものは、実を結ばない民(マタイ21:43)、良
い葡萄のはずが腐れ葡萄を実らせた民(エレミヤ2:21、ホセア10:1〜2)についてであったことでしょ
う。彼は結実の教理の導入にそれを実例として取り上げました。前にも述べたように、彼はイ
スラエルを、民族としても「神の国があなたがた(イスラエル、実を結ばない国民)から取り上げ
られ、実を結ぶ国民に与えられる」(マタイ21:43)、個人としても「わたしの枝で実を結ばないもの
はみな、父がそれを取り除き…なさいます。」(ヨハネ15:2)の実例として引用したのです。

 4.1.1構成
 この部分の構成を示すため、この部分についてのパゼット・ウィルクスの分解を紹介してお
きます。
@ユダヤ人が福音を信ぜざる神の側の理由 (ローマ9:1〜29)
・パウロのユダヤ人に対する愛(9:5)
   骨肉なるが故に(9:3)
   大いなる特権を有するが故に(9:4,5)
・神の約束は真のイスラエルに属す (9:6〜13)
・神の絶対的主権(9:14〜24)
・多数のユダヤ人の捨てられることは予言による(9:25〜29)
Aユダヤ人が福音を信ぜざる人の側の理由  (ローマ9:30〜10:21)
・不信仰のために失敗(9:30〜10:4)
・律法の義と信仰の義の区別(10:5〜11)
・ユダヤ人の救われる道と異邦人の救われる道との区別はない(10:12〜21)
Bユダヤ人の最後の定め (ローマ11:1〜36)
・神はその民を捨てたか(11:1)
   少数の遺残者(11:1〜10)
・彼らのつまずきは倒れに至ったか(11:11) 救いが異邦人に及ぶため一時的に捨てられただ
けである(11:11〜24)
・ユダヤ人は最後にことごとく救われる (11:25〜32)
・結論的讃美(11:33〜36)
 この部分の題を、"ユダヤ人の不信仰の意味合いについて"としましたが、パウロがここに記
そうとした内容はむしろ、異邦人の集団である教会が神の民として受け入れられていることの
意味合いについてです。ただ彼のユダヤ人に対する熱い思いが、わたくしは彼らが救われる
ためであるなら自分が亡んでもよいと書かせたのです。

 4.1.2パウロの思考の流れ
 パウロが、実を結ばなかった民ユダヤ人の問題を取り上げようとしたとき、まず心に浮かん
だことは、「この神に背く民!」と怒りの思いを持ってこれを取り上げているのではないことを強
調しておくことでした。"私の心情は、私は彼らの同胞であり、彼らのために「この私がキリスト
から引き離されて、のろわれた者となることさえ願う」(9:3)ほどです。"と。
 「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法が与えられることも、礼拝
も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らの者です。キリストも、人としては彼らから出られた
のです。」(ローマ9:4〜5)
 パウロは、"このイスラエル人が棄てられるというのなら、神の言葉が無効になったのであろ
うか?"という疑問を提題として9章6節以下の議論を展開します。
 その回答として、"そうではない。(8:6)"と断定し以下の理由を述べています。
・「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではない…」(8:6)
 アブラハムの子すべてがアブラハムの子孫とは呼ばれず、イサクから出る者だけがアブラハ
ムの子孫と呼ばれた。(9:7)
・「肉の子がそのまま神の子どもなのでは なく、約束の子どもが子孫とみなされる」 (9:8)
 その約束のみことばは、「…サラは男の子を産みます。」(9:9)です。
・「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんで下さる神によるのです。」 (9:16)
 誰を憐れみ、だれを憐れまないかは神の主権に属することであるというのが、この後に続く
議論です。(9:17〜23)
・「神は、このあわれみの器として、…異 邦人の中からも召して下さった。」(9:24) その例証と
して、ホセアの予言を引用します。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった
者を愛するものと呼ぶ。」(9:25)
・「では、どういうことになりますか。 義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち
信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しま
せんでした。」(9:30〜31)イスラエルは信仰によって追い求めなかったからです。
 神は、その絶対的権威をもって「信じる者を救うと定められた」のですから、異邦人があわれ
みに選ばれ、イスラエルが棄てられるに至ったのです。
 後続の部分も含めて要約しますと、以下のようになります。
1.神は絶対的主権をもっておられる。(9:18)
2.神はその主権をもって、ユダヤ人、異邦人の区別なく信ずるものを救うことにされた。
(9:30、10:4、10:10、10:12〜13)
3.ユダヤ人は律法による義、すなわち己の行為による義に固執して救いを失った。 (9:31〜32、
10:3)
4.あなた方は信仰によって救われている。(9:24〜26)
5.しかしあなた方もユダヤ人のように高ぶるならば、捨てられる(11:22)。神があなた方に代え
て、ユダヤ人を立てなさることは容易なことである。(11:23〜24)
6.それなのに今、ユダヤ人を不従順のまま放置しておられるのはすべての人をあわれむため
である。(11:25〜32)
7.神の知恵と知識との富は何と底知れず深いことでしょう。(11:33)

4.1.3カルビン主義神学との対比
 この部分はまたカルビン神学の個人の選びの教理の論拠とされてきました。しかし全体をま
とめて把握すれば、パウロは「神はその絶対的主権をもって、信ずるものを救うとお定めにな
られた。ユダヤ人は信仰による義をとらず、あなた方は信仰による義を得た。」と言っているこ
とがわかります。


 参考のためアルミニウス主義とカルビン主義の主張を対比しておきます。それらは、五つの
争点が中心ですが、カルビン主義者達が自らの主張の頭文字をとって、TULIP(花の名のチ
ュウリップ)と呼んでいます。
<TULIP:カルビン主義とアルミニウス主義との論争点の頭文字>
                  ( )内はアルミニウス主義の主張
・Total depravity 全的堕落
                   (全的に堕落しているが、先行恩寵により信仰の応答可)
・Unconditional election 無条件の選び
                   (信仰を条件とする選び)
・Limited atonement 限定された贖罪…あらかじめ選ばれた人のみに対する贖罪
                   (すべての人のための贖罪)
・Irresistible grace 不可抗的恩寵
                   (人は滅びと恩寵を選択できる自由を有する。)
・Perseverance of the saints 聖徒の堅忍…一度救いに与かった者は絶対に滅びない     
                                      = 永久保全
                    (一度救いに与っても、滅びることがある
                                 =罪を犯す自由を有する)  
 カルビン主義の思想の出発点は、「聖定」という概念です。世の初めから終わりまで、この宇
宙の運行のすべてのプログラムは決定されていて、ただそれが時間とともに進んでいるに過ぎ
ない、と考えるのです。その思想に立って、救われる者と滅びる者の存在の理由を説明しよう
とするため、以上の主張が生じています。
 神が私たちに示しておられることは、もっとダイナミックであって、「私は、きょう、あなたがた
に対して天と地とを証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あ
なたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)人間に自由を与え、人間自身に選択させること
は、聖書全体に一貫して流れている神の啓示です。

<今回の学びの結び>
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえにあなたがたにお願いします。
あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げなさい。」(12:1)
 

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