「同労者」第8号(2000年5月)             論説に進む   目次に戻る

巻頭言
− 信  徒  観 − 
仙台聖泉キリスト教会   野澤 睦雄

「からだの中で比較的弱いと見られる器官がかえってなくてはならないものなのです。」
(コリントT12:27)

 教会を建設するためには、教会観が大切です。かつて、「教会観」ということが叫ばれ、先生
方が順に、機関誌「聖泉」に自らの教会観を述べられました。
 同様に、信徒を形成するためには、「信徒観」が必要です。それは、教会の肢、キリストの体
を構成する"部分"に対する見方です。
 あるかたがたは、信徒会を運営すること自体に関する懸念を持たれているでしょう。その懸
念がなぜ生じるのでしょうか。それは信徒がどのようなものであるか、その実績、長い期間に
渡る信徒が示した自分たちの姿によるのだと思います。長い期間かけて形成された「信徒観」
がその根底にあります。
 教会はその部分によって構成されるのですから、教会観と信徒観とは表裏一体です。もう少
し言うと、現代の教会に関する教会観は、「牧師観」と「信徒観」がその主要な部分を占めるの
です。牧師を建設し、信徒を建設することが教会を建設することです。バウンズは"説教者を造
るのには20年かかります。"と言いましたが、信徒を建設するにはもっとかかるかも知れませ
ん。
 私は、二つのことを提案したいと思っています。第一は、信徒会そのものを結成することさえ
懸念される信徒の姿をしっかりと見据えることです。このことを避けて通ろうとして、実際の姿に
目をつぶっていたら、建設はできません。私たちはお互いの現実の姿を直視し、建徳していか
なければなりません。他の人はさておき、自分はどんな姿の信徒であるのか、お互いによく考
えましょう。
 心にあるものは、まず思念にでてきます。要するに自分は、先生についてとかあの兄弟この
姉妹などなどについてどう考えるか、をよく思い返してみることです。それから、考えたことは口
からでてきます。自分の口から出てくるものをよく思い返してみることです。悪口、愚痴、恨み
言、世をはかなむこと、すねたこと、うわさ話などがでませんでしょうか。それが私の姿であると
思ってください。
 第二は、先生方から安心して「同労者」と呼んで頂ける信徒とはどのようなものか、聖書に照
らしてしっかりと把握することです。教会の抱えている労苦を担う人、それが同労者ではありま
せんか。
 会の運営を通じて、この会に参加する方々が、第一の姿から第二の姿に変えられることを願
っています。教会の重荷になる人から、重荷を担う人に変えて頂こうではありませんか。そうい
う信徒会を作りたいと願ってみなさんにお勧めしているのです。




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