「同労者」第8号(2000年5月)   Q&Aルームへ進む  目次に戻る  巻頭言に戻る

論  説

 ― ことばの「メッセージ性」を問おう ―
「わたしを信じる者は、…そ人の奥底から、生ける水の川が流れ出る。」(ヨハネ7:38)
 「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリス
トの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:10〜
11)

 聖霊を受けた者は、イエスのいのちが流れ出るものとされます。このいのちの流れは、何を
介して流れ出るかというと、その主たるものは「ことば」なのです。
 牧師が信徒に説教やその他の場所で語ること、教会の長老・役員といった職務の人々がそ
の職務の上で語ること、教会学校教師が生徒に語ること、夫が妻にその夫としての立場から
語ること、妻が妻としての立場から夫に語ること、親が子供達に語ること、教会の兄弟姉妹に
兄弟姉妹としての立場から語ること、教会外の方々に信者としてその立場から語ること、など
などにおいて、その語ることの「メッセージ性」が問われます。
 この福音について語るということは、それが教理を教える事であったり、どのように道を選択
していくかの判断であったり、様々な内容が含まれることでしょう。それは、説明や、勧めや、
単に聞くだけの相づちであったり、といった様々なことが含まれはしますが、それだけではあり
ません。またそれに伴って、語る者の感情、すなわち心の起伏、喜びや怒りや心配、あるいは
感動があり、時には涙や笑いその他の表現によってそれが相手に示されていることでしょう。
福音に関するある事柄について大変上手に説明がされていても、そこにメッセージ性を持たな
い説明は沢山あります。涙とともに勧めがなされてもそこにメッセージ性を持たない場合があり
ます。
 この「メッセージ性」というものは一体何でしょうか。私たちは各々に備えられた信仰生活をす
るのであって、同じ人生を歩む人はおりません。私たちが完璧にその信仰生活を歩む力量を
備えているのであれば、指導して頂く必要はありません。しかし、実際は全ての人が指導を受
ける必要があります。また私たちの結実のために、神はあえて課題をおかれるのです。
 神はその指導に、ご自身が直接語られることはまれであって、ほとんどの場合、人を介して
御心を示されるのです。神が派遣した人が、御心通りの取り次ぎをするとき、そこに、神のメッ
セージがあります。これはその人の信仰にいのちを与えるものであって、イエス・キリストから
流れ出る「いのち」なのです。
 このメッセージは、神のみ心に適うものであると同時に、その取り次ぎを受ける人の現状に
適したものでなければ働きをしません。その内容は、一人一人、またその時その時異なるもの
でなければなりません。「聖書を読みましょう。集会に出席しましょう。祈りましょう。」だけではな
いのです。ここに神と人との間に立つ働きがあり、ルターが高く掲げた万人祭司の意義があり
ます。
 私たちは、自らのことばのメッセージ性を問おうではありませんか。




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