「同労者」第8号(2000年5月)  紙上メッセージに進む  目次に戻る  読者の広場に戻る

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1998.4.28 から
ローマ人への手紙(第8回)

仙台聖泉キリスト教会   野澤 睦雄


 「そういうわけですから、兄弟たち。神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あ
なたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこ
そ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)


 前回は、まず8章の最後として、潔められた信者に要求されている結実について学びました。
結実とは「行い」によって己の品性を示すことです。クリスチャンは、聖霊の導きに従って生き
るその行いによって、キリストの名に相応しい品性を示すことが要求されています。それが御
霊の実なのです。(マタイ3:5〜10、マタイ7:15〜20、ガラテヤ5:19〜23)
 次ぎに、9章から11章までを学びました。その中で、カルビン主義神学と私たちの信じている
アルミニウス主義神学の論争点を紹介しました。パウロは、この箇所をローマのクリスチャン
達に向けて書いているのです。パウロがユダヤ人について触れたのは、ユダヤ人に関する教
理を解説したかったのではなく、異邦人のクリスチャンに対する鑑(かがみ)とするためでした。
「彼らは不信仰によって折られ、あなたがたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえ
って恐れなさい。」(ローマ11:20)この視点を見失わなければ、カルビン主義者達のようにこの箇
所を読み違えることはありません。要点を繰り返すならば、以下のとおりです。
 1.神は絶対的主権をもっておられる。(9:18)
 2.神はその主権をもって、ユダヤ人、異邦人の区別なく信ずるものを救うことにされた。(9:30、
10:4、10:10、10:12〜13)
 3.ユダヤ人は律法による義、すなわち己の行為による義に固執して救いを失った。(9:31〜
32、10:3)
 4.あなた方は信仰によって救われている。(9:24〜26)
 5.しかしあなた方もユダヤ人のように高ぶるならば、捨てられる(11:22)。神があなた方に代え
て、ユダヤ人を立てなさることは容易なことである。(11:23〜24)
 6.それなのに今、ユダヤ人を不従順のまま放置しておられるのはすべての人をあわれむた
めである。(11:25〜32)
 7.神の知恵と知識との富は何と底知れず深いことでしょう。(11:33)
 カルビン主義の思想の出発点は、「聖定」という概念ですと述べましたが、その主張に少し
立ち入ってみると、私たちの信仰とは似ても似つかないものと分かります。その原因はいくつ
かありますが、大切な点は、@時間の概念に欠けること、A意志の働きを過小評価して
いることです。
 @については、一例をあげるとカルビン主義者は、"キリストが十字架にかかられたとき、
(過去の)永遠から(未来の)永遠まで贖罪が完成された。"とします。ですから、贖罪に与った
者(聖定により救われると決められた人)は、永遠に滅びないことになってしまうのです。また、
キリストが"すべての人のための贖罪を完成した"とすると、滅びる人がいることの説明がつか
なくなります。そのため、"キリストは滅びる人の贖罪はしなかった。"と言うのです。しかし、聖
書は明言します。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世(人間)を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:
16)滅びない人が信じたのではなく、信じた人が滅びないのです。キリストは十字架で「救いの
備え」を完成されたのです。人間が信じた時に、キリストが備えられた恵みに与るのです。
 Aについては、「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽ってはならな
い。貪ってはならない。」との聖言に示されるように、罪は「行い」の中にあります。言い換えれ
ば、罪は人間の意志決定の中にあることになります。信仰は、「信じなさい。」と命令される
ものであって、命令の応答は、やはり「行い」です。つまり信仰も意志決定の中にあるの
です。カルビン主義者は「全的堕落」を強調する余り、「人間の意志が全く働らかない」としなが
ら「信仰によって救われる」といい、信仰の本質を見失っています。この影響は、実際の生活の
中で、信仰によって進んで行かなければならない事態に当面した時に顕れてきます。そのあり
方は、私たちにとって、とても信仰とは言えないものとなりがちです。
 意志決定の問題は、@の時間にも関わります。なぜなら、人間が意志決定できるの
は、「今」という時間においてだけだからです。ですから、罪を犯すことも、信仰することも
「今」以外には存在しないのです。人間の救いが成立しているのは、信仰が保たれてい
る間だけなのですから、救いは「今」という時間にしか存在しません。
 もちろん、神が恵みによって、明日も明後日も永遠までも、私を救いに入れておいて下さるこ
とを信じて疑いませんが、救いは今の信仰の連続にあるのです。
 自分が救いに定められていると思っている人にしかカルビン主義者はいません。そこにかれ
らのエゴがあります。

 本日の学びに入ります。
4.2福音に生きる者の生き方の解説とすすめ (ローマ12:1〜15:13)
 この段落は、次のように区分することができます。
・聖霊の実を結ぶための基礎(12:1〜2)
・クリスチャンとしての生き方の原則(12:3〜21)
・この世における生き方(13:1〜14)
・教会における生き方(14:1〜15:13)


 4.2.1聖霊の実を結ぶための基礎(ローマ12:1〜2)
 聖潔の考察の中で、聖潔の実、すなわち「御霊の実」について述べました。そして、聖書をよ
く読んでみると「実」は「行い」であることが分かることを示しました。「良い木は みな良い実を
むすぶが、悪い木は悪い実を結びます。」(マタイ7:17)良い実をむすぶために、私たちは良い木
でなければなりません。そのためにしなければならないことを、パウロはまず最初に示します。

(1)「そういうわけですから…お願いします。」(ローマ12:1前)
 この"そういうわけ"はローマ人への手紙9〜11章全体を指しますが、特にローマ11:20〜22
「彼らは不信仰によって折られ、あなたがたは信仰によって立っています。…あなたがたがそ
のいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたがたも切り落とされる
のです。…」が当てはまります。

(2)「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさ
い。」(ローマ12:1中)
 供え物のけものの多くは、贖罪のためほふられましたが、人に代わって罪を負い野に放され
る例があります。(レビ14:1〜7、16:5〜34) 私たちがキリストと共に死に、キリストと共に生きると
き、キリストは私たちのために死んで下さいましたが、同様に私たちも兄弟達のために死に、
兄弟達のために生きることが期待されています。
 イエスは最後の晩餐の時、弟子達の足を洗って言われました。「わたしがあなたがたにしたと
おりに、あなたがたもするようになるためです。」(ヨハネ13:14〜15) そして食事中に、こう言われ
ました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたし
があなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34〜
35) またこう言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方がたも互いに愛し
合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大
きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あ
なたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:12〜14)そして、繰り返して言われます。「あなたがたが
互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(ヨハネ15:17) 使徒ヨハ
ネは、晩年になって手紙を書いたと言われますが、イエスの戒めをかれの信仰の勧めとしてこ
う述べます。「キリストは私たちのためにご自分のいのちをお捨てになりました。それによって
私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
(ヨハネT3:16)
 これらの聖言の中に、兄弟のために死に、兄弟たちのために生きる意味合いがよく示されて
います。

(3)「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1後)
 文語訳聖書の最初の版では、「これ当然の祭りなり。」と訳されています。この聖句の研究者
たちの解説を読み比べてみると、「… それこそ、礼拝する者として当然のこと(相応しい姿)で
す。」という意味にとらえられます。

(4)「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12:2前)
 ヤコブも次のように言います。「世を愛することは神に敵することである…。」(ヤコブ4:4)
 同様にヨハネもこう言います。「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは…」(ヨハネT2:15〜
17)この世と同調して生きるとは、その価値観が救われていない人々と同じであることです。で
すから肉の欲を満足させることが価値であり、そのように生きる生き方を好んでしまうのです。
それが「この世を愛する」ことです。

(5)「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるか
わきまえ知る…」(ローマ12:2中)
 これこそ、クリスチャンとして生き生きとした信仰に歩めるか否かを決定する大切な点です。
御心に生きることをよしとできないならば、結局己の欲を満たすために神に"あれをして下さ
い、これをして下さい。"といって逆に神を使う信仰生活をすることになります。A.B.シンプソ
ンの讃美歌にあるように「…主を用いず主のために我は絶えず用いらる…」でありたいもので
す。
 私たちの生活の中に、摂理の神の配剤があり、選択すべきことがらがそこにあります。その
とき「神のみこころ」に対する関心をもっていないと、それ(神が喜びなさる選択枝)を悟ること
ができません。神に喜んで頂けない信仰生活をしていくとは、信じているとは言いながら、なん
とつまらないことをやっていることになることでしょう。

(6)「心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2後)
 カナンの地に入ったイスラエル人達は、占領地を戦争によって勝ち取ったのです。神が恵み
によってなして下さるのは、内なる人の変貌であり、戦いの備えなのです。結実までも神が作り
出してしまうのではありません。繰り返して述べていますが、結実は「行い」にあるのですから、
信仰の馳せ場で遭遇する事態に応じて、信仰の兄弟や不信者の隣人を愛することにあるので
す。

<今回の学びの結び>
「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示
の御霊を、あなたがたに与えて下さいますように。またあなたがたの心の目がはっきり見える
ようになって、神の召しによって与えられる望みが…どのように栄光に富んだものか…あなた
がたが知ることができますように。」(エペソ1:17〜19)



 

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