れ、且つ、ほのかな温みを感じた。 ――今から三、四十年前に遡ろうか。私の父が宗教を勧めに来た人に向かって怒鳴ったそ うだ。『そんなのは要らん。俺はキリスト教だぞ!』父の死後四十年、初めて聞いた逸話であ る。―― 無骨で照れ屋で、子供ともあまり口を利いた事もない父、(私も父に対し或る反抗心を持って いた。)そんな父ではあったが、当時在職していた森教会に来ては庭の片隅で草を取ったり、 片づけをした父だった。私は、そんな父の姿を見ながら照れ屋の父の私に対する精一杯の親 の情を感じたのだった。私がクリスチャンになった時も賛成も反対もせず、いわゆる無関心の ようだった父。もちろん集会に座った事もなく、キリスト教についても全く無知の父だったと思 う。しかし、そんな父ではあったが私がクリスチャンになり牧師になった事で、『俺はキリスト教 だぞ!』の発言になったのではなかろうか。 そんなこぼれ話を聞いて私は思った。聖書は「すべて主の名を呼ぶ者は救われる。」とある。 たとえ出まかせの喧嘩返答であっても、『俺はキリスト教だ!』と告白(?)した父の言葉を主は受 け止めて下さったのではなかろうか。曲がりなりにも母も次兄も妹も洗礼を受けた。受洗こそし なかったが、今ここに在りし日の父の話を目撃者の姉から聞き、そう信じたいと思った。 昨年、七四才で亡くなった長兄に臨終の枕もとでヨハネ一四章を読み、肯く兄の手を握って 祈ったが彼の魂もまた主は受け止めて下さったと私は、信じているのである。 「されば我が愛する兄弟よ、かた確くしてうご揺く事なく、常に励みて主のわざ事を務めよ、汝 等その労の主にありて空しからぬを知ればなり。」(コリントI15:58) |