「同労者」第8号(2000年5月)     読者の広場に進む   目次に戻る   証詞に戻る

信仰随想

俺はキリスト教だぞ!

森聖泉キリスト教会   牧師 秋山 光雄


 先日、兄の一周忌で田舎を訪ねた折り、姉から次のようなこぼれ話を聞き、思わず笑わさ
れ、且つ、ほのかな温みを感じた。
 ――今から三、四十年前に遡ろうか。私の父が宗教を勧めに来た人に向かって怒鳴ったそ
うだ。『そんなのは要らん。俺はキリスト教だぞ!』父の死後四十年、初めて聞いた逸話であ
る。――
 無骨で照れ屋で、子供ともあまり口を利いた事もない父、(私も父に対し或る反抗心を持って
いた。)そんな父ではあったが、当時在職していた森教会に来ては庭の片隅で草を取ったり、
片づけをした父だった。私は、そんな父の姿を見ながら照れ屋の父の私に対する精一杯の親
の情を感じたのだった。私がクリスチャンになった時も賛成も反対もせず、いわゆる無関心の
ようだった父。もちろん集会に座った事もなく、キリスト教についても全く無知の父だったと思
う。しかし、そんな父ではあったが私がクリスチャンになり牧師になった事で、『俺はキリスト教
だぞ!』の発言になったのではなかろうか。
 そんなこぼれ話を聞いて私は思った。聖書は「すべて主の名を呼ぶ者は救われる。」とある。
たとえ出まかせの喧嘩返答であっても、『俺はキリスト教だ!』と告白(?)した父の言葉を主は受
け止めて下さったのではなかろうか。曲がりなりにも母も次兄も妹も洗礼を受けた。受洗こそし
なかったが、今ここに在りし日の父の話を目撃者の姉から聞き、そう信じたいと思った。
 昨年、七四才で亡くなった長兄に臨終の枕もとでヨハネ一四章を読み、肯く兄の手を握って
祈ったが彼の魂もまた主は受け止めて下さったと私は、信じているのである。
 「されば我が愛する兄弟よ、かた確くしてうご揺く事なく、常に励みて主のわざ事を務めよ、汝
等その労の主にありて空しからぬを知ればなり。」(コリントI15:58)



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