![]() 聖書を学んでみると、神の愛が不変であることを見出すでしょう。人間の愛ならば、ひとたび は愛しても、いつしかその愛も冷えてしまい、去って行くことも多くあります。時には愛が憎しみ に変わってしまうことさえあるでしょう。しかし神の愛はそうではありません。イエス・キリストにつ いてこう記されています。主が弟子たちに見捨てられ、カルバリへと引き渡されるまさにその 時、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示され」(ヨハネ13:1)たの です。主は弟子の一人に裏切られることをご存知でしたが、それでもユダを愛されました。別 の弟子が主を否定し、決して知らないと誓うことをご存知でしたが、それでもペテロを愛された のです。主は変わらぬ愛をもってペテロを愛し続けておられ、その愛こそが、ペテロの心を砕 き、悔い改めさせ、彼の主の足もとへ連れ戻したのです。3年の間、イエスは弟子たちと共に おられ、生活と言葉によってだけでなく、ご自身の御業によって、その愛を教えようと努められ ました。そして、引き渡される夜、主はたらいに水を入れ、手ぬぐいをまとわれ、しもべのように 弟子たちの足を洗われました。主は弟子たちにご自身の変わらない愛を悟らせようとなさった のです。 私にとって聖書の中で、ヨハネの福音書14章ほど何度も繰り返し読み、そして非常に甘美な 箇所は他にありません。この章は決して私を飽きさせません。主が弟子たちに対してご自身の 心を注ぎ出しておられる次の御言葉に耳を傾けてください。「その日には、わたしが父におり、 あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。 わ たしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父 に愛され」(14:20〜21、強調点筆者)ます。天と地をお造りになった偉大な神が、私達を愛して おられる、ということを考えてみてください。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守 ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人 とともに住みます。」(23節) 御父と御子が、私達のところに来て共に住まうことを願われるほど、私達を愛しておられると いう、この偉大な真理を、私達の貧しい心がとらえることを神は望まれたのです。一晩の宿な どというのでなく、来て私達の心の中に住まわれるほどに…。 さらに素晴らしい一節は、ヨハネ17章23節にあります。「わたしは彼らにおり、あなたはわた しにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣 わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るため です」(強調点筆者)。これはイエス・キリストの御口から発せられた御言葉の中で特筆すべき もののひとつです。御父が御子を愛されない理由はありません。御子は死に至るまで御父に 従い通されました。決して御父の定めに背かれなかったし、全き従順の道から一歩たりとも脇 へそれたことはありませんでした。私達人間は全く正反対です。しかし、その人間のあらゆる反 逆や愚かさにもかかわらず、主は、私達がキリストに信頼しているなら、御父は御子を愛する ように私達を愛してくださる、とおっしゃいます。なんという愛でしょう!なんと素晴らしい愛でし ょう!神が、ご自分のひとり子と同じように強く私達を愛してくださるなんて、あまりに素晴らしい ので信じがたいほどです。しかし、それはイエス・キリストの教えなのです。 罪人に神の不変の愛を信じさせるのは困難です。人が神から迷い出る時、自分は神に憎ま れている、と思うからです。私達は罪と罪人との区別をしなくてはなりません。神は罪人を愛さ れますが、罪を憎まれます。神が罪を憎まれるのは、罪が人の生涯を破壊するからです。神 が罪を憎まれるのは、ただ罪人を愛しておられるからなのです。 ![]() |