ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開 してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。 質問の送付先は 仙台聖泉キリスト教会 山本嘉納牧師まで TEL & FAX : 022-266-8773 「神様…、本日の御講壇には○○先生が立たれております。どうぞ先生に"聖霊の""油を""注 いで"下さい。先生の口を通して、あなたの"みことば"が取り次がれ、私たちの必要とする"光" が示され、必要とする"霊の糧"を与えて頂き、私たちが今日もまた"あなたの道"を"歩む"こと ができますように。…」 このように、なんとたくさんのキリスト教の専門用語を使うことでしょうか。そしてそれを使える ということは、確かにその内容を理解しているのです。しかし、説明して下さい、といわれると、 うまく説明できないことが多いのではないでしょうか。 子供さんを育てている方々は、子供さんが何かの機に、「…ねえ。光ってなーに。」、「神様は 本当にいるの。」とか「救われるってどういうこと?」、「人間は全部アダムとエバから生まれて きたの。」…というような質問をすることがないでしょうか。 それらの質問がでた瞬間が大切で、「教会で先生に聞いてごらん。」と、後に延ばすと子供さ んの興味は絶たれてしまいます。本コラム"Q&Aルーム"の設問を日頃お考えいただくなら、 子供さんへの答えはほんの一言となるでしょうが、この長々とした解説をにれはんでいるときっ と参考になることでしょう。 さて、前月の質問に対して皆さんお考え頂けましたでしょうか。今回も回答例を載せてみます ので、自分の答えと比較してみてください。 前号の質問に対する回答 1.先月の回答に、"救われた人(神の子)には光がある"と述べましたが、その光とは何 ですか。また"新生していない人の闇"とは何ですか? (回答) ここにいう「光」は、自然界の光ではありません。これは神の世界(霊界)の光なのです。この 光について、「みことばの戸が開くと、光が射し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」 (詩編119:130)から、まず旧約聖書が述べていることを列挙してみましょう。 「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。」(詩編4:6) 「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。」(詩編27:1) 「どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。」(詩編43:3) 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩編119:105) 旧約聖書に光として、「神ご自身」、「神のみことば」と「神から放射される光」が示されていま す。そして光は、知識と悟りを与え、進みゆく道を示すものとなっています。 新約聖書には次のようなみことばがあります。 「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光 が上った。」(マタイ4:16) 「わたし(イエス)は、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのち の光を持つのです。」(ヨハネ8:12) 「光のある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36) 「あなたがたは以前は暗やみでしたが、今は主にあって光となりました。光の子どもらしく歩み なさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義なのです。――」(エペソ5:8〜9) 「…やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。」(ヨハネT2:8) 「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。…」(ヨハネT1:3) 「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わり を保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネT1:7) 「光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」(コリントU6:14) 「光にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなおやみの中にいるのです。兄弟を愛 する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、 やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのかを知らないのです。やみが彼の目を 見えなくしたからです。」(ヨハネT2:9〜11) ここで、イエスが「光」と呼ぶものは、神の国の情景を示すものであって、イエスもこの神の国 の情報に対する知覚を持たないものを「盲目」(ヨハネ9:39〜41)と呼ばれました。神の国の目の 開かれた人は神の国の光によって神の国の情景を悟るのです。 光には、まず神の国の真実の姿を知る意味合いがあります。その意味ではサタンと悪霊達 も光を持っています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。…ですが悪霊どももそう信じ て、身震いしています。」(ヤコブ2:19)との聖言がそれを示しています。 光には更に意味があります。それは「まことの光」(ヨハネT2:8)とヨハネが呼んだものであって、 「…私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべ ての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネT1:7)という光です。その光は、人間が罪と一緒に持っ ていることが出来ないものです。 つまり光は、善悪、神の国と「暗やみの世界」(エペソ16:12)と無関係に存在するのではなく、 良いものとして扱われています。光はことばとともに働いて人間の心を照らし、神の御心を悟ら せるのです。この光は罪が赦され、新生のめぐみに与った人に与えられます。 信者の間の交わり(使徒信条にある「聖徒の交わり」)は光のあるときにできます。この光の ない交わりは、「この世の交わり」です。 潔めは光の中を歩むものに与えられます。もし私たちが潔めの恵みに与りたいと願うなら、 光の中を歩まなければなりません。 闇はまさに光の反対です。上記のみことばに、盲目で神の国の情景が見えず悟ることができ ないことを示しています。その内容は、この肉体の目が見えないということから類推できます。 今見えている私たちが完全に目を覆って、見えなくしてみれば、その暗やみの大変さがわかり ます。 みことばが信仰によって生きて働かないと、サタンのように、みことばを知っていながら、まこ との光を持たないものとなります。 救われていない人は、神の国の事柄に対して、この暗やみにいるのです。 2.「良心」と「価値観」にはどんな関係があるのですか? (回答) ある人にとって、何が価値のあるものと見えるでしょうか。一般論ではなく、その人個人の「価 値観」としては、それが最も大切です。それは、たとえ本人が意識してそれが自分の"幸福であ る"と考えなくても、その人の求めている幸福でもあるのです。 良心はその幸福に決定的な影響を及ぼします。良心が覚醒されていないときに求める幸福 は楽しみであり、そのときには楽しいと思ったことも、ひとたび良心が覚醒されると、その人にと っておもしろくないものとなることが多々あります。罪の楽しみは、その度にまた罪を犯したとの 悔いをもたらし、価値あるものではなくなります。 私たちが光の中を歩むなら、キリストによって潔められた良心をもって喜ぶことができる"価 値あるもの"こそ本当に価値があるという価値観を持つに至ります。 今月の質問 今月もまずご自分で答えてみて下さい。 1.救われた信者も罪を犯しますか? |