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           「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思う
           
          べき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくだ さった信仰の量りに応じて慎み深い考え方をしなさい。」(ローマ12:3) 
           「結実の教理に関する解説」の学びに入り、4.2福音に生きる者の生き方の解説とすす
           
          め(ローマ12:1〜15:13)まで、進んできました。そしてこの段落は、次のように区分できることを 学びました。 
          ・聖霊の実を結ぶための基礎 (ローマ12:1〜2)
           
          
          ・クリスチャンとしての生き方の原則 (ローマ12:3〜21)
           
          
          ・この世の生活における生き方 (ローマ13:1〜14)
           
          
          ・弱い者への配慮(ローマ14:1〜15:13)
           
          
           前回は、4.2.1聖霊の実を結ぶための基礎としてローマ12:1〜2を学びました。
           
          
          「…あなたがたのからだを、…生きた供え物としてささげなさい。…」ここに述べられている「献
           
          げる」の意図は、潔め派の人々の間でよく言われる、…献げて信じることにより潔められる…と いう潔めの入り口の問題ではありません。その問題は8章までに完成されています(参照ローマ 8:1〜2)し、そのときの供え物はキリストの死と一体となるものであって(ローマ6:3〜18)、死に至 る供え物でした。「…私は、神のあわれみのゆえに、…」(ローマ8:1)と言うのは、前章に述べた 神の厳しさがユダヤ人に下り、神の憐れみが異邦人に下っていることを受けていっているので す。私たちが「生きた供え物」となることが、憐れみによって神の恵みに入れられている私たち が、そこで実を結ぶための必要事項なのです。生きた供え物として神の所有となったものは、 この世のものであってはならず、神の聖さに相応しい心の一新されたものでなければならない のです。 
           本日の学びに入ります。
           
          
          4.2.2クリスチャンとしての生き方の原則(ローマ12:3〜21)
           
          
           はじめに、ローマ人への手紙12章について、パウロが一体どのように考えてこの部分を書き
           
          綴ったか、彼の思考をたどって見ましょう。 
          ローマ 12:1 身を捧げよ
           
          
          ローマ 12:2 心の一新によって自分を変えよ
           
          
                 この世と調子を合わすな
           
          
          ローマ12:3前半 …自分(パウロ)に与えられた
           
          
                 恵み、すなわち使徒であることとその
           
          
                 権威によって、あなたがた…に言う
           
          
          ローマ12:3後半 分を越えて思い上がるなよ
           
          
                 慎み深い考え方をしていなさい
           
          
          ローマ12:4〜5 慎み深い考え方は、あなたが
           
          
                 キリストの体の一器官に過ぎないことを弁えることにある
           
          
          ローマ12:6〜8 キリストの体には以下のような賜物があるがあなたはどれを頂いているのかそ
           
          
                 の賜物を用いることに忠実でありなさい
           
          
            <予言>
           
          
            <奉仕>
           
          
            <教え>
           
          
            <勧め>
           
          
            <分け与える>
           
          
            <指導>
           
          
            <慈善>
           
          
          ローマ12:9〜18 賜を用いる時の姿勢は以下のようでなければならない
           
          
          ・愛に偽りがあってはならない
           
          
          ・兄弟愛をもって互いに愛し、互いに尊敬せよ、人を自分より勝っていると思いなさい
           
          
          ・勤勉で怠らず…
           
          
          ・常に希望を持ち、患難に耐え…
           
          
          ・祈りに励む
           
          
          ・聖徒の必要とするお金を献げよ
           
          
          ・旅人をもてなせ
           
          
          ・あなた方を迫害するものをも祝福せよ、逆にのろったりするな
           
          
          ・喜ぶものと喜び、泣くものと泣け
           
          
          ・互いに一つ心となれ
           
          
          ・傲るな、身分の低いひとと一緒にいよ
           
          
          ・自分こそ知者だなどと思うな
           
          
          ・悪に悪をもって報いるな
           
          
          ・すべての人が良いと思うことをせよ
           
          
          ・すべての人と平和をはかれ
           
          
          ローマ12:19〜21 敵対する人々の処置は神にまかせよ
           
          
          ・自分で復讐するな
           
          
          ・あなたの敵が飢えたら食べさせ、渇いたら飲ませよ
           
          
          ・あなたに期待されていることは、善によって悪に勝つことである
           
          
           着目点とその解説
           
          
           @「慎み深い考え方」と「賜物」
           
          
           パウロはテモテに「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎
           
          みとの霊です。」(テモテU 1:7)と言いました。聖霊によって私たちが働かせて頂こうとするとき、 「力」と「愛」とに並ぶものとして、この「慎み」が置かれています。 
           力は働きに欠かせないものです。力がなければ、私たちは4人の人に運ばれてやってきた中
           
          風の人と同じで誰かに担われなければならないのです。力のあるものだけが神と隣人のため に働くことができます。力は賜物として与えられるのです。 
           愛は力を行使する側の人の動機をキリストに相応しいものであらしめる要素です。
           
          
           慎みは、愛の働きが相手の状況に相応しいものであるかどうかを決定づけるので重要なの
           
          です。 
           この箇所で、パウロは"私たちがキリストの体の一器官であることを認識することによって、
           
          慎み深い考え方をすることができる"、あるいは言い換えて"慎み深い考え方とは私たちがキリ ストの体の一器官であることを認識し、その立場に立ってものごとを考えることである"というこ とを示しています。パウロは、コリント人にもこのことを述べています(コリントT 12:4〜31)し、「私 は限度を越えたりはしない(コリントU 10:13)。」と自分自身についても同一の原理を当てはめて います。 
           A「愛には偽りがあってはなりません。」(ローマ12:9)
           
          
           ここで言う「愛」は、「愛の行為」であって、賜物を用いて兄弟(クリスチャン)に自分が持って
           
          いるものを何らかの形で与えることをさします。コリント人への手紙13章の書き出しでは、「愛 とみえる行為」と「愛」の違いとして述べられていますが(コリントT13:3)同一のことを言っているの です。イエスキリストも山上の垂訓においてこのことを示しておられます(マタイ6:1〜6)。「偽りが ない」とは意図が純潔であること、つまりその行為の動機が愛だけであることを示しています。 
           私たちは自分の心をよく観察することによって、自分の動機を把握する必要があります。
           
          往々にして、愛を看板に兄弟姉妹のうわさ話をしているだけに過ぎないことがないでしょうか。 
          <今回の学びの結び>
           
          
           兄弟たちの中に喜ぶべきことがあったときが「喜ぶ者と喜ぶ」という実を結ぶ機会であり、兄
           
          弟たちの中に悲しむべき出来事があったときが「泣く者といっしょに泣く」実を結ぶ機会です。 聖霊の実を結びたい人はその機会を逃がしませんように。  |