「同労者」第56号(2004年6月)      一どは原書を読みたい本に進む   目次に戻る

信仰良書

− 神 へ の 道  (45) −
D.L.ムーディー 著   仙台教会 山田 大 訳

良い忠告
 テトス3章9節には次のような短いけれどもしっかりとした忠告があります。「しかし、愚かな議
論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです」。
 しかしここでもう一方の純粋な懐疑論者について述べなくてはなりません。そのような人々に
対しては母親が病気の子にするように優しく接したいと思います。ある人が懐疑的だからとい
って、そのような人を退け、全然関わろうとしない人に私は全く同感出来ません。
 暫く前求道者会の席に懐疑的な一人のご婦人がおられたので、少し前から知っていた女性
の信者にその方をお願いしました。後から見回っているとその求道者の方が会堂から出て行
こうとしていました。私は先ほどの女性信者に「何故彼女を帰らせてしまうのですか」と尋ねると
「だって彼女は懐疑論者なのです」との答えが返って来ました。私は出口に走って行き、彼女を
留めて別の働き人に紹介しました。その働き人は一時間以上も彼女との会話と祈りに費やし
ました。また彼はその求道者とその夫とを訪問し、一週間のうちにその知的な婦人は疑いを捨
て去り有力な信者へと変えられました。時間や知恵や祈りを必要としますが、この種の人々が
純粋であるなら、私たちは主が私たちをお扱いになられたように彼らを扱うべきです。
 疑り深い求道者のためにいくつかの聖句を挙げてみましょう。「だれでも神のみこころを行な
おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのか
がわかります」(ヨハネ7:17)。もし人が神のみこころを行おうとしないなら、その人には神の教え
はわからないでしょう。神は彼らが罪を捨て去ることを望んでおられるという知識を持たないよ
うな懐疑論者はいません。そしてもし人が進んで罪から離れて光を受け、主が与えてくださった
ものを感謝するなら、また聖書全体が一度に理解出来てしまうようなことを期待しないなら、そ
の人には日々光が加えられていきます。彼は一歩一歩前進して、暗闇から天の明るい光へと
正しく導かれます。(この項つづく)





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