「同労者」第56号(2004年6月)     三浦や子読書会に進む   目次に戻る

わかふうふわかもん

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」
仙台聖泉キリスト教会 山田 行
 
 伝道者の書3章1、2節に「天のしたでは、何事にも定まった時期があり、すべての営みには
時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。・・・」とあるように、この御言葉に触れ
るたびに私たちの命は神の手の内のものであり、また、その生きる歩みを律するのも「時」で
あることを感じます。その時以前でも、その時を過ぎてしまっても駄目で、まさにその時でなけ
ればいけないという「時」の厳しさが必ずあることを感じます。
 今月は私の救いの記念や、結婚記念日、そして長女の誕生日がありました。一つ一つ振り
返るとすべてが神様の大きな哀れみと、私に与えてくださるふさわしい時での出来事であった
と信じています。
長女も11歳になりました。与えられ時はペンテコステの礼拝の朝で、前の晩から入院していま
して、主人は丁度その礼拝のメッセージがあり準備の学びをしながら側にいてくれたことを思
い出します。幸いな記念の朝に娘を胸に抱き、主人も礼拝の前に抱くことができて安心して教
会へ向う姿がありました。心から神様に感謝したのがついこの間のように思い出されます。
その時から子供と生きる事が始まりました。子育てをしてみて感じることは「叱るにも、愛をきち
んと伝えるにもタイミングがあるな」ということでした。またどういう時に、どういう行動するかは
ふさわしい時があることも教えられました。しかしこれは、とても難しいことでまだまだわたしは
トンチンカンなことをしてしまいます。というのは、「愛している、愛しているこの子は私の子よ」
と自分の視野の狭さや全て自己本位でしか子供を見つめていないからです。
少なくとも自己本位の視野から離れて周囲の事柄や周りの人たちの様子など関連する事柄を
判断していくことは「時」を捉らえる大切なことではと思いました。またその子供をどれだけ観察
しているかということと祈りを積み神様によく知っていただくことだと思うのです。また時で無いと
きは、誤解されても静かに待つ、またそのときが来たら自己を投げ打ってでもその行為をす
る。という決断は愛と祈りの中でされていくのだと思いました。
 最近は随分娘といろいろな話ができるようになりました。私が娘を観察しているように娘も母
親をよく見ていることに驚かされています。時々「その言い方はきついよ。」とか「どうしてそうい
うことするの?」
など私に対する疑問、嫌なことを素直にぶつけてくるのです。とてもカチンとくることもあります
が、私のその時の思いや感情を率直に伝えるようにしています。今はこのように側にいてきち
んと会話ができるように、お互いがもっと分かり合えるようにする時が与えられていると思い、
できるだけ一緒にいて話しやすい雰囲気を作ろうと思いました。
全てが手探りでの子育てですが、家族みんなが神様の定めた時を逃さぬようにその時に与え
られた、しなくてはいけないこと、してはいけないこと、乗り越えていくふさわしい課題を見つめ
ながらへりくだって歩みたいと願っています。





私はシャロンの サフラン
谷の百合の花
  
(雅歌2の1)





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