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          「同労者」第60号(2004年10月)
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          冒涜(ぼうとく)の咎
           
          
           ヨハネ5章の21節から23節に「父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もま
           
          た、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子 にゆだねられました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない 者は、子を遣わした父をも敬いません」とあります。 
           ユダヤの法律によると、神を冒涜する者は死刑にされることになっていました。ですから宗教
           
          指導者達は、キリストがただの人間であると見做して、彼の働きを神への冒涜であるとしたの です。実際もしキリストが神でなかったなら、「子を敬わない者は、・・・父をも敬いません」という 彼の言葉を冒涜としないで他にどんな冒涜があるでしょう。その言葉は紛れもない冒涜となっ たはずです。もしモーセやエリヤやエリシャや他の誰か人間に過ぎない者が「神を崇めるよう に私をも崇めなければならない」と言って自分を神と同じ高さに置くなら、それは紛れもない冒 涜です。 
           ユダヤ人はキリストが彼自身が主張したような存在とは違うと言って死刑にしました。その証
           
          言のためにキリストは宣言させられたのです。大祭司は言いました「私は、生ける神によって、 あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい」(マタイ26: 63)。「それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。『あなたは、いつまで私たちに気を もませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください』イエスは彼らに答 えられた。・・・『わたしと父とは一つです』ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また 石を取り上げた」(ヨハネ10:24−31)。 
           ユダヤ人の指導者達はもう聞きたくないと言いました。それは冒涜だからです。キリストが有
           
          罪とされ処刑されたのは、ご自身が神の子であるとの宣言のためだったのです(マタイ26:63− 66)。(この項つづく) 
          (訳者 仙台聖泉キリスト教会 会員)
           
          
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