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           (3)教会の携挙
           
          
          <第一の復活(つづき)>
           
          
          第一の復活はイエス・キリストの贖罪の業です。
           
          
          「というのは、死がひとりの人(アダム)を通して来たように、死者の復活もひとりの人(イエス)
           
          を通して来たからです。」(コリントT15:21) 
           イエス・キリストの復活が、私たちの復活の先頭になるもの(初穂)ですから、私たちもイエス
           
          の復活と同じ復活が与えられるのです。弟子達のいた部屋に突然現れたり、去って行かれた り、食事を一緒にされたりした、復活の後にイエスが弟子達に示された行動がその内容を示し ます。 
          「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(コリントT
           
          15:20) 
          「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご
           
          自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:21) 
           復活は「霊」だけでなく、「からだ」の復活です。使徒信条に「我は・・身体(からだ)の甦りと、
           
          限りなき生命(いのち)とを信ず。」と告白しているとおりです。 
          「すると、イエスは言われた。『なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのです
           
          か。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。 霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。』」(ルカ24:38〜39) 
          「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、・・」
           
          (ダニエル12:2) 
          「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハ
           
          ネ3:16) 
           復活の体は朽ちない霊に属する体であり、栄光のある強いものです。
           
          
          「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しい
           
          もので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらさ れ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」(コリントT15:42 〜44) 
           復活は瞬時の出来事です。
           
          
          「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないもの
           
          によみがえり、私たちは変えられるのです。」(コリントT15:52) 
          <復活した死者と生きている人(教会)の携挙>
           
          
           第一の復活に与った死者と、生きている信者とが一緒に空中に引き上げられて、再臨された
           
          イエスにお会いします。 
          「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来ら
           
          れます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たち が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このよう にして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(テサロニケT 4:16〜17) 
           繰り返し述べているように、これを教会の携挙といいますが、これは次のようなことを意味し
           
          ます。 
           現在イエス・キリストは、天におられて私たちは直接そのみ姿を見ることはできません。代わ
           
          りに聖霊がキリストの霊としてイエスを顕されています。イエスが再臨されると再び見える形で 私たちの共におられるようになります。つまり聖霊と教会の時代が終わることを意味します。 
           教会の携挙の時に、つまり千年王国のはじまる時に、携挙された人々に対するキリストの審
           
          判(第一の審判)があります。 
           その審判者はキリストご自身です。
           
          
          「かの日には、正しい審判者である主が、・・」(テモテU4:8)
           
          
           そしてその審判の内容は、与えられる報いの大小を決定するものです。救いにあずかってい
           
          る人々だけに対する審判であるからです。 
          「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉
           
          体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(コリントU5:10) 
           その報いの大小は与えられたもの(タラント)をどれだけ忠実に用いるかによって決められま
           
          す。ある人は豊かな報いを与えられますが、ある人はやっと天国にはいれるだけという結果に なることもまた警告されています。 
          「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だ
           
          ったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」(マタイ25: 21) 
          「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは
           
          明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現わ れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れ ば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けま すが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(コリントT3:12〜15) 
          (以下次号)
           
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