「同労者」第95号(2007年9月)                           目次に戻る

JSF&OB

 神を畏れることに現役で
 石井 和幸

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませ
んでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白して
いたのです。」(ヘブル11:13)


  7月25日、私の祖母が94歳にてその生涯を全うし、召天した。私は初孫として、15年祖
母と生活を共にすることができ、大変感謝している。以下は7月25日に書いた私の日記であ
る。
「・・・小さいころはよく手を焼かせました。中学生の頃は朝、もう親は起こしにこないのに(祖母
は)起こしにきてくれました。何より、毎朝静かに聖書を開きみんなの為にお祈りをしていまし
た。そして90歳を超えても6月まで毎日店番をし、教会では幸せそうに賛美していました。 7
月になって、彼女(私の婚約者)を2回会わせました。(祖母は病床にて)子供みたいなとびきり
の笑顔で迎えてくれました。神様はそれで良しとし、苦しませることなく今日、おばあちゃんを天
に召されました。・・・今頃、あの大きな声でイエス様を讃えていることでしょう・・・ 現役の祈り
の器は、その役目を全うしたのでした・・・」

 祖母が召されてから一ヶ月が経とうとしているが、「私が継承すべき祖母の信仰とは?」という
問いかけが私の心に突き刺さっていく。地上の生活は世渡り上手な人が台頭し、自らもその土
俵に上げられる日々だ。いつのまにか主なる神様の権威もなければ、畏(おそ)れることもなく
なってしまうような生活、そして都合のいい時にだけ思い出したかのように、水戸黄門の印籠を
出すかのように「私は信仰者です」と言ったところで、それは神様に栄光を帰するどころか、周
囲につまづきを与えてしまう。
 祖母の信仰とは、常に主を畏れることに現役でありつづけること…多くを語らない祖母が、実
は心配性であることを私は知っている。けれども、祖母のそんな一面をかき消すかのように、
毎日の生活には祈りがあり、賛美があった。
 「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるの
か。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではない
か。」(ミカ6:8)
  祖母はいつも自分の机にこの聖句を書いた紙を入れていた。私はこの先、どのような生涯
を歩むか分からない。ただ分かっていることは、地上での生涯にて祖母が持ち続けたこの御
言葉、次に地上で持ち続けるのは私ということ。主なる神様を仰ぎつつ、歩まさせて頂きたい。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)






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