「同労者」第95号(2007年9月)                         目次に戻る

巻頭言
− 信徒説教 − 
玉城 憲一

 私どもの教会では、役員と婦人伝道師の先生方とが、毎月1回、伝道会の説教をしておりま
す。
 自分の番がくると苦しくなってきます。しかし、重荷ではありますが恵みも与えられます。6月
15日の伝道会で、とうとうその順番がまわってきまして、ご用をさせていただきました。
「題はどうしますか」と言われると、私は迷わず「私の救い」と言います。何故かといいますと、
説教ということになると自分自身がおかしくなってしまうからです。おしくならないために、私は
伝道会の説教題は「私の救い」にさせていただいております。その関係で、説教でなくお証詞と
なっております。
 伝道会が終わったあと、同労者の係の野澤兄から「そのお話を巻頭言に書いたらどうでしょ
うか」と勧められました。いろいろと考えてみましたが、何を書いたら良いか分からなくなり、野
澤兄のいわれた通り、それを書きました。
 「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、『アブラハムよ』
と呼びかけられると、彼は、『はい。ここにおります』と答えた。神は仰せられた。『あなたの子、
あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなた
に示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』」(創世記22:1
〜2)
 アブラハムは豊かな財産を所有し、何一つ不足のない生活をしていました。しかし、そのよう
なアブラハムではありましたが、ただひとつ足りないものがありました。彼には彼の後継者とな
る子供がいませんでした。彼は願い続けました。欲しくて欲しくてたまらなかったもの、その長い
年月待ってようやく与えられた、その子供がイサクでした。その子を神のために捧げなさいと神
様からのご命令でした。彼は従いました。アブラハムの心中にためらいがなかったのでしょう
か。けれども彼はその思いを乗り越えて、イサクを捧げる覚悟のできた人でした。
 人間の試練は何度かあると思います。高校入試、大学入試も試練でしょうし、学校を卒業し
た後は就職に、また仕事がある程度成功しますと、結婚・・と。それぞれ、その時に信仰の道を
取るか、信仰はさておいて自分の望む道を選ぶか、その選択がその人の生活を決めてしまう
でしょう。
 私は救われてまもなく仙台聖泉キリスト教会に出席しはじめました。その頃私は大工見習い
で、父と一緒に働いていました。その当時は、日曜日も第一と第三しか休みがなく、休みでない
日は礼拝に出席できませんでした。「集会に出たいけど出席することができない」と先生に話し
ました。それに対して先生は「集会に出るように」と言われました。その時私は悩みました。ま
た祈りました。朝は一緒に出て「10時から12時まで教会に行きますから休ませて下さい」と言
い出すのにも勇気が入るし、見習いでありますから他の人は仕事をしているのに自分だけ休
んで抜けること、また他の人から嫌みを言われること、はじめのうちは大変なところを通りまし
た。慣れてくると、回りの人々も「あいつは日曜日はダメなんだ」と言うようになり、私も集会の
大切さが分かるようになってきました。
 集会は絶対にでなければならないというわけではなく「できるだけ守るようにしましょう」と言わ
れており、その人にまかされていますけど、集会にでることによって、その人の霊的命が豊か
にされるものです。
 その内に教会によって結婚も与えられました。結婚もひとつの試練ではなかったかと思われ
ます。そして、子供を二人も与えられました。ひとつひとつの試練を乗り越えさせていただき、こ
こまで来ることができました。問題がないわけではありませんが、幸いな人生を送ることができ
て感謝しております。
 生きている間に、神様は一度や二度にわたって「あなたが一番大切にしているものと私とど
っちを取るのだ」と試練をお与えになるのだと思います。その時選択を誤らないようにするなら
ば、神は私たちを大いに祝してくださるでしょう。
「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死
者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」(ヘブル11:19)
(仙台聖泉キリスト教会会員)



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