「同労者」第96号(2007年10月)                          目次に戻る 

論  説

 − 全き愛は恐れを除くの意味 

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(ヨハネT4:18)


 冒頭に掲げたみことばが示している恐れは何に対するものでしょうか?
 初代のクリスチャンの書いた手紙ですから、追い迫る迫害の手に対する恐れでしょうか。私
たちをキリストから引き離すものに対する恐れでしょうか。私たちをキリストから引き離すもの
は何か?と問を投げかけてパウロは、「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ロ
ーマ8:35)といいました。
 しかし、今の日本に住んでいる私たちは、もっと別のことを挙げるでしょう。
 仕事を得、収入を得つづけて生きていけるだろうか。病気にならないだろうか。人づきあいを
うまくやっていけるだろうか。
 ある程度年を取ってくれば、やがて来る老後をどう生きることが出来るだろうか。それらのう
ちのあることは恐れる必要がない、杞憂であることでしょうが、恐れて当然であることがらもあ
ります。
 体になんらかの思わしくない症状が感じられたとします。これは何だろう?悪い病気だろう
か。腫瘍ができたが、長く治らない。癌だろうか?と恐れないでしょうか。御手に委ねてますか
ら何も心配してません。と言わなければならないのでしょうか。
 そう考えている人は、聖書を読み誤っています。
 心の中に御手に委ねられない、これだけは自分の権威の下においておく、というものを持っ
ているとき、それに神が触れられることを恐れるのです。全き愛はその恐れを除き、神の御手
に陥ることをよしとするするのです。
 私たちが、主の祈りを1週間1度も祈らずに過ごすことは殆どないでしょう。その中に「みここ
ろ」についての祈りがあります。
『天にいます私たちの父よ。
 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行われるように
     地でも行われますように。
 私たちの日ごとの糧を
     きょうもお与えください。
 私たちの負いめをお赦しください。
 私たちも、私たちに負いめのある
     人たちを赦しました。
 私たちを試みに会わせないで、
     悪からお救いください。』
 〔国と力と栄えは、とこしえに
     あなたのものだからです。
             アーメン。〕

 みこころが天で行われるように、私にも行われますように。アーメン。
 これを私たちは自分の信仰の「試金石」としようではありませんか。




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