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          「同労者」第96号(2007年10月)
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           エゼキエルの見た神殿(エゼキエル書40:1〜42:19)が、恐らくこのとき主のおられるところとなる
           
          であろうと推測されます。エゼキエルの神殿は、「主はここにおられる。」(エゼキエル書48:35)とこ ろであり、その意味は、単に臨在されるのではなく、実際にそこにおられると解すべきであるか らです。これが新天新地のできごとではないこともあきらかです。天から降る新しいエルサレム には神殿がないからです。 
          「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、
           
          小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の 栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(黙示21:22) 
           レビ記の25章にヨベルについて規定されています。このヨベルの規定も、仮庵の祭り同様
           
          に、国中にラッパが吹き鳴らされ、大いなる贖罪の日に解放が宣言されます(レビ記25:25:9)。当 然引き続いて仮庵の祭りがなされることでしょう。 
           祭司は、主を礼拝する儀式を執り行うことでしょう。しかし、動物の犠牲は不要ですから、そ
           
          の礼拝は私たちが行っている礼拝に近いものであろうと推測されます。 
           幕屋の備品として、あかしの箱を置いた至聖所の垂れ幕の前に、金の燭台とパンを供える
           
          机、香を焚く壇がありましたが、これらをどのように用いるのか、レビ記の24章に、祭司の働 きとして、次のように規定されています。 
          「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純
           
          粋なオリーブ油を持って来させよ。アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、 夕方から朝まで【主】の前に絶えず、そのともしびを整えておかなければならない。これは、あ なたがたが代々守るべき永遠のおきてである。彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶え ず【主】の前に整えておかなければならない。あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二 個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。それを【主】の前の純金の机の上に、一 並び六個ずつ、二並びに置く。それぞれの並びに純粋な乳香を添え、【主】への火によるささげ 物として、これをパンの記念の部分とする。彼は安息日ごとに、絶えずこれを【主】の前に、整 えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。これ はアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであ り、【主】への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」(レビ記24:2〜 8) 
           イエスご自身が光であられますが、オリーブ油によって絶えず明かりをともすことについて、
           
          私たちは聖霊によってその光がともされることを連想するでしょう。また、その油を絶やすこと について、油を用意した娘たちと用意しなかった娘たちを例としたイエスのたとえを思い起こし ます(マタイ25:1〜13)。私たちは怠りなく「御霊によって歩む」(ガラテヤ5:16)者たちであらせていた だきたいものです。 
           供えのパンは12個でした。祭司の着るエポデの肩当てに12個の宝石が取り付けられて、イ
           
          スラエルの12部族が神の前に記念されたと同様に、12個のパンは神の前にイスラエルが覚 えられるためであることでしょう。 
           このパンに聖霊の象徴である乳香が添えられました。
           
          
           パンはキリストの体を象徴します。祭司は聖所でそのパンを食しました。今は、まず私たちが
           
          イエスの体に与ることを示していると考えられますが、イスラエルが回復された時、再びイスラ エルがイエスの体に与ることをも象徴しているものと思われます。 
           祭司のもう一つの重要な働きが民数記に記されています。それは神に代わって民を祝福す
           
          る権威が授けられていたことです。そして祭司が祝福するなら神が実際にそれを行って下さる という神のお約束です。 
          「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさ
           
          い。『【主】があなたを祝福し、 
          あなたを守られますように。【主】が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。【主】が
           
          御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人 のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」(民数記6:23〜27) 
          なんと素晴らしい特権でしょう。
           
          
          新約の祭司である私たちに対するお約束も、以下のみことばのように素晴らしいものです。
           
          
          「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを
           
          任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであ り、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与 えになるためです。」(ヨハネ15:16) 
          「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天において
           
          もつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」 (マタイ18:18) 
           私たちが祝するなら、神が実際に祝してくださるのです。畏れをもって神の代務者をつとめさ
           
          せていただかなければなりません。(以下次号) 
          (仙台聖泉キリスト教会会員)
           
          
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