「同労者」第97号(2007年11月)                         目次に戻る

巻頭言
− 宴 会 − 
山田 義

 宴会の席で戸惑ったことがある。ピアノ調律師の年次の集まりがあり、100人ほどが広い部
屋の畳に座って食事をする。あちこちで酒を酌み交わしている。一人の男が席順に酒をついて
回って来る。私の前に現れた。断ると大声で「おれの酒が飲めんのか」とどなる。

 ある礼拝の説教の例話として聞いたことがある。「酒を飲まない知り合いのクリスチャンはそ
んなとき懐に乾いたタオルを準備し、挨拶として口にはするがそっとそのタオルにもどして飲み
込まない」という話。口に含むまでは挨拶の一部であり、のどに通さないことで禁酒を通してい
るという話だ。

 私は回って来た赤ら顔の男の酒を断った。何回か勧めるが受け取りたくなかった。私は酒の
うまいことは知っているし、頑固な禁酒主張者でもなかったのだが、無理矢理飲まされることに
抵抗感があった。刺身を食べた口には清酒がうまいことは経験している。飲んで体が熱くなり
その後の体温の調整に失敗すると体調に不具合を見ることもしばしばあった。17歳のころだ
ったか、たいした量でもないのに酒に酔ってろれつが回らなくなって自分に驚いたこともある。

 私は徹底した禁酒家ではないが酒を飲まないことにしている。しつこい酒飲みに誘われたくな
い。飲んだ勢いでないと人と話せないという人を見かける。酒の上で付き合いをはじめることに
意味を感じない。自分の体調に反してまでも飲まねばならない人間関係は友情どころではな
い。ただの営業上の付き合いで飲んでうまく行くというなら、長続きはしないだろう。

 「アルコールを飲んではいけないとは聖書に書いてない」というような言い訳をしながら缶ビー
ルの開けるのもいやだ。クリスチャンの友人よ、私の前では云い訳も遠慮もせずにお飲みなさ
い。たしかに普段口の重いあなたがいっときでも解放されている姿に感心する。ただ、体も心
もそれに慣れてしまっていつの間にか溺れてしまうことがないように。自制できる範囲でどうぞ
と言いたいがその自制を少しずつおかしていくのが酒ではないだろうか。人生の苦い経験を自
分が味わって始めて知るのはなく、私たちの周りに大勢が警鐘を鳴らしているではないか。 
 この夏、人の家の夕食で梅が出た。アルコール漬けの梅だった。そのとき若いころの夏の日
を思い出した。調律の仕事のあと出された冷たい飲み物がうまかった。帰りの運転の車の中
でなんだか体に急な熱さを覚えた。車の中の鏡で発見した自分の目に気がついた。あのコップ
の中に浮いていたのは梅だった、梅のアルコール漬けだ、自分の体はわずかな量のアルコー
ルでこんなにも反応するのだと。今夕はその梅のひとかけらをかじっただけで止めたが、帰路
の運転の途中でそのことに気がつき、すぐに運転を妻に替わってもらった。

 いつも無口な人が、アルコールが入ると急に雄弁になるのを見る。とっくりを手にもって私の
前に来た男は、「オレのつぐ酒を飲め」という。普段は挨拶もしたこともない私に今日はわざわ
ざ近づいて来て話しかける。ずいぶん勇気が要ったに違いない。酒の場で友人を増やしたい
のだろう。私は酒好きの兄と食事をしながら彼の四方山話を聞くのが好きだったから、酒飲み
の相手になって話をすることは苦手ではない。酒は断るが、握手をしようと提案すると一瞬どぎ
まぎするが、自分の名前をかたり親しく話しているうちに、手に持ったとっくりは忘れてしまう。こ
ちらから握手を求めて挨拶のきっかけとする、しばらくの会話は続くものだ。
 飲んだ勢いで話しかけてくる人に、「私は飲まない、酒飲みはとはつきあえん」と放言するより
クリスチャンとしてそういう人を包み込んでやりたい。
2007.09 「同労者」に寄稿
(中京聖泉キリスト教会会員)



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