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          「同労者」第98号(2007年12月)
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           かつての流行ことばに、「大きいことはいいことだ」というのがあった。
           
          
           ここで語る「大きい」は声の大きさである。
           
          
           会社で、よくこういうことがいわれた。「声が大きい方が勝ち」。
           
          
           物事を決定するのに意見が分かれた場合、テーブルを叩いての激論になっても、声が大き
           
          い方の主張が通るということである。 
           主張している意見に自信がないとどうしても声が小さくなる。報告や説明でもそうであって、内
           
          容が不確かであると声が小さくなる。 
           多分高校のときだったと思うが、英語のリーダーに、こういう一くだりがあった。
           
          
          「小さい頃、私はお父さんが牧師さんより大きい声でお祈りをするので、神様はお父さんのお祈
           
          りを、きっと牧師さんのお祈りよりももっとよく聞いて下さるに違いないと思っていた。・ ・ ・」 
          クラスの中で指名され、立ってその訳を言わされたが、牧師さんよりオーバー(over)にお父さ
           
          んが祈った、となっている文のoverが訳せずへどもどしたので忘れられない一文となったので あった。 
          なぜ、こんな文を覚えているかなどということはどうでもいいが、この内容には一抹の真理があ
           
          る。 
           テマイの子バルテマイが、蚊の泣くような声で「ダビデの子よ。私を哀れんでください。」と言っ
           
          たとしたら、果たしてイエスは、彼を呼び寄せてくださったであろうか。その声は、群衆のざわめ きにかき消され、イエスのもとに届かなかったに違いない。 
           シロアムの池で目を洗い、生まれながらの盲目を癒された盲人は、パリサイ人たちに、小声
           
          で応えただろうか? いや、きっと、「冗談じゃありませんよ。先生方。私が盲目であったことは みんな知ってるじゃありませんか。・・」と大声で応えたに違いない。 
           パウロとシラスはピリピの牢の中でひそひそ声で讃美したのだろうか。牢の中に響き渡った
           
          のは、大声で歌ったからに違いない。 
           本日の話を以下のように結論しよう。
           
          
           「祈りは主張である。」
           
          
           こうして欲しいと思ったら、大きい声で祈るべきである。
           
          
           「証詞は主張である。」
           
          
           証詞を語るときは、大きい声で語るべきである。
           
          
           「讃美は主張である。」
           
          
           讃美するときは、大きい声で讃美すべきである。
           
          
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