「同労者」第98号(2007年12月)
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アブラハム・リンカーンの力強い宣言
アブラハム・リンカーンは3百万人の奴隷解放を宣言する声明を出しました。定められた日
に奴隷達の鎖は解かれ、彼らは自由になるのです。北軍の軍隊が進むところはどこでも、そ の声明が木やフェンスに掲げられました。非常に多くの奴隷達は字が読めませんでしたが、他 の人々がその宣言を読んでくれて、彼らのほとんどがそれを信じました。そして定められた日 には「私たちは自由だ!」という喜びの叫びが沸き起こったのです。その宣言を信じなかった 人々もいて、その人々は古い主人のところに居続けました。しかしそれは彼らが自由であると いう事実を変えるものではありませんでした。私たちの救いの主であられるキリストは、主を信 じる全ての人の自由を宣言されました。その御言葉によって主を信じようではありませんか。 自分自身を見つめることは自由をもたらしません。しかし信仰の目を持ってキリストを見つめる ことが自由をもたらすのです。
ライル主教はかつて次のような注目すべきことを言いました「信仰は根で、救いの確信は花
です。疑いも無く、根が無ければ決して花は咲きません。しかし根がありながら花が咲かないと いうのも同様にあり得ないのです」。
信仰とは、混雑の中でキリストの背後に来て、主の着物のすそに触った、哀れでおののいて
いた婦人の姿(マルコ5:27)であり、確信とは、自分を殺そうとしている人々の真ん中に静かに 立ち、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」(使徒7:56)と 言ったステパノの姿です。
信仰とは、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してくださ
い。」と叫んだ、回心した強盗の姿(ルカ23:42)であり、確信とは全身にできものができ、塵の 中に座りながら、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ(る)」「見よ。神が私を殺して も、私は神を待ち望(む)」(ヨブ19:25、13:15)と言ったヨブの姿です。
信仰とは、ペテロが沈みかけた時に、溺れながら「主よ。助けてください」(マタイ14:30)と叫
んでいる姿であり、確信とは、後に同じペテロが議会を前にして「『あなたがた家を建てる者た ちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれ によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名として は、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:11,12)と宣言している姿で す。(この項つづく)
(訳者 仙台聖泉キリスト教会 会員)
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