「同労者」第98号(2007年12月)                           目次に戻る

聖書研究

万人祭司・万人予言者・万人王(第24回)
野澤 睦雄
 
2.旧約における三つの職務の考察(つづき)
 2.2 預言者

  2.1祭司の節の中で(本連載の第4回に)祭司と預言者と王の職務の比較のため既に述べ
ていることですが、預言者の職務の中心は「神のことば」を取り次ぐことです。この世の仕事の
区分で言うならば、祭司の役目は宗教の領域であり、王の役目は司法、立法、行政そして軍
事を担うものであり、預言者は教育・・普通の学校教育のようなものではなく、神との係わりに
関する教育ですが・・の領域に相当しています。
 祭司と王は世襲でその職に就きましたが、預言者は世襲ではなく、神が特定の個人を選び
分かち、その人の使命として預言職に就かせなさいました。ですから、預言者はその職務以前
に「神の人」でなければなりませんでした。祭司は一定の定められた任職の儀式を行うことによ
って、祭司となることができましたが、預言者は、神がその一人一人をお取り扱いになり、それ
ぞれ異なる方法をもって「聖別」されて神の人になりました。彼らは神によって聖別されました
から、「聖者」でありました。預言者がいつ聖別されたかは、それぞれ違っていますが、預言職
についてその働きをしている中で聖別され、新しくされその働きを強められた例がほとんどで
す。
 それでまず、預言者たちが神によってお取り扱いを受けたいくつかの例を学んでいきたいと
思います。

・モーセ
 モーセはイスラエル民族をエジプトから連れ出しカナンの地に導いた人物で、律法が与えら
れ、アロンが祭司職に就くまで、彼は預言者であると同時に王であり祭司でした。
 モーセの特筆すべき神との出会いの経験は、「燃える柴」として知られています。彼はエジプ
トから逃亡し、ミデアン人の祭司イテロという人物のもとに身を寄せ、その人の娘チッポラを妻
として羊飼いをしている時の出来事です。
「モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の
西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると【主】の使いが彼に、現れた。柴の中の
火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言っ
た。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
【主】は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」
と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはい
けない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せら
れた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセ
は神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。【主】は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわ
たしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを
知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良
い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所
に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはま
た、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロの
もとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出エジプト記 3:1〜10)
 「靴を脱げ」というのが主のご命令でした。靴を脱ぐことは奴隷であることを意味しました。彼
は靴を脱ぎ、彼を呼ばれた神【主】の奴隷であることを承知しました。
 聖書はこの時の彼の経験について、彼がイスラエルをエジプトから連れだす使命を与えられ
た事以外多くを語りません。しかし、その経験以前の彼とそれ以後の彼を比較してみるとき、
その経験によって主が彼にお与えになったもの分かります。
 王としての職務は、判断力、統率力といったものを必要とすることでしょうが、預言職を務め
るめの資質はもっと別なものです。以前の彼は、イスラエル人と争っているエジプト人を簡単に
打ち殺してしまうような人物でした。(出エジプト記 2:11〜15)
しかし、燃える柴という異象を見、神とお会いする経験をし、イスラエルをエジプトから連れ出す
職務についた後の彼は、「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜(柔和)
であった。」(民数記 12:3) 、文語訳聖書では「そのひととなり温順(おだやか)なること、世のす
べての人に勝れり」と記されています。
 この謙遜(柔和)こそが、彼が神の人であり、神の聖を顕す預言者の性格でした。
 彼はなんと多くの困難の中で、この謙遜(柔和)を顕し続けたことでしょうか。出エジプトした民
と荒野の困難な旅を共にする中で幾たび民は彼に逆らい、彼を嘆かせたことでしょうか。けれ
ども彼は、「なぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸
に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのでしょう。」(民数記 
11:12)と神に訴えているとおりに行いました。 彼はツィンの荒野メリバで、水を求める民を怒っ
てしまいましたが、それは神の聖を損なうものでした。「しかし、【主】はモーセとアロンに言われ
た。『あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。
それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできな
い。』」(民数記 20:12)
 謙遜(柔和)こそが、彼の預言者としての資質の要であったことが分かります。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会会員)




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