「同労者」第99号(2008年1月)                          目次に戻る

証詞

− 救いの証詞 −
石井 ミワ

十字架のかげに泉わきて いかなる罪も清めつくす
おらせたまえこの身を主よ 十字架のかげにとこしえまで

 私が生まれた時、実家の屋島家では祖母がクリスチャンであり、祖父はお寺の檀家に入って
おりましたので、家には仏壇と神棚と聖書があるという、不思議な環境でありました。両親は当
時クリスチャンではありませんでしたが、ほどなくして祖母に連れられて教会に行くようになり、
私も一緒に礼拝に参加するようになりました。冒頭に「十字架のかげに」の一節を書かせてい
ただきましたが、これは私が幼い頃一番最初に覚えた聖歌です。当時は意味もよくわからずに
讃美していましたが、洗礼を受けて後、これが一番の愛唱歌となりました。
 中学・高校と、進学するにつれ、部活や勉強などが忙しくなり、「わざわざ時間を割いて教会
に行く」ということが苦痛になってきた時期がありました。当時は「神様がいるのはわかっている
けれど、救いが自分のためだなんて思えない!神様が愛する人っていうのは、あの人みたい
に歌がうまいとか、あの人みたいに勉強ができたりとか、あの人みたいに神様の役に立つ人な
んじゃないの?」と思い込み、聖書の中の物語は面白いし、教訓もいいことが書いてあるけれ
ど、自分には関係ないように感じでいました。その頃、弟が洗礼を受けたことや、祖父が洗礼
を受けたこともあり、私も受けないかと勧められましたが、頑として聞き入れず、救いが自分の
ためだと信じていないのに洗礼を受けるなんてありえないと突っぱねていました。洗礼を受け
たら、ただでさえ忙しいのに奉仕だとか面倒なことが増えそうだと思ったことも理由の一つでし
た。
 そんな私に神様が働きかけてくださったのは、大学に入ってからでした。入学式後のガイダン
スでサークル紹介のコーナーがあったのですが、そこで軽音楽サークルの次に出てきたのが
聖書研究会でした。第一印象で「地〜味〜」とは思ったのですが、自分が今まで教会で聞いて
きたみことばというものを、学生のうちにちゃんと学んでみるのも面白そうだなと思い、試しに
聖書研究会に足を運んでみることにしました。
 お試しで・・・と思って足を踏み入れたはずが、聖書の世界にハマるまで、あまり日数は必要
ありませんでした。みことばを読んで、そこで何が語られているのか、疑問点やスゴいと思った
点を同年代の友人達と納得いくまで話をすること、時に顧問の先生やキリスト者学生会(KG
K)の主事達、教会の牧師先生に聞いたりしながら、時代背景や考え方なども含めて追求する
ことは、とても新鮮で面白く、「神様ってスゴいんだなー」と実感する日々でした。
 さて、私の頑さも、少しづつ砕かれてきた矢先、「留年」というショックな出来事がありました。
「神様がこんな私を救ってくれるはずないよ・・・」と再び頑になり始めた時、先輩から「KGKの
春期学校に行かない?」と声をかけられました。
どうしようかとかなり迷いましたが、このままぐだぐだしているよりはマシだろうと、参加すること
にしました。
そこで、自分という存在を良いものとして造ってくださった神様に、「こんな私は欠陥商品でしょ
う?」とダメだしをしている自分の姿、そして、神様の存在を知りながら自分勝手に生きようとし
ている自分の罪に気づかされました。
「あなたは愛されているでしょう?」と問いかけを受け、涙ながらに「アーメン」と答えることがで
きたのはこの時でした。イザヤ書43章で「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあな
たを愛している。」と主がイスラエルに語ってくださった言葉は、そのまま私にも語られているの
だということが、わかった瞬間でした。これをきっかけに、神様に対する感謝があふれ、20歳
の誕生日の次の日に洗礼を受けました。

 結婚も神様の導きにより、共に十字架のかげに安らげる主人と一緒になることができまし
た。教会でも皆様に暖かく迎えていただき、多くの祈りに支えられながら、充実した日々を送る
事ができております。年の瀬を迎え、一年を振り返り、神様の導きと祝福に心から感謝するとと
もに、これからも、神様の導きに従っていけるよう、心に覚えて祈っています。
感謝とともに、このお証しを閉じたいと思います。
(仙台聖泉キリスト教会 会員)




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