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信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開 してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。送付先は巻末に あります。
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<イエス・キリストの復活>
先月の質問
先月の質問は、
「イエス・キリストの復活について考えましょう。
・・イエス・キリストの復活が事実であることを聖書によって述べて下さい。」でした。
回答例(作成者:野澤)
また、R.A.トーレイが「聖書の教え」に整理した記述を参照させていただきます。
5.イエス・キリストの復活
5.1 復活の事実(つづき)
(15) イエスが復活後に種々の異なった人にご自身を現された方法が適切であったこと。(つづ
き)
<トマスに対して>
「それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私
は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れ てみなければ、決して信じません」と言った。
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていた
が、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。 それから トマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたし のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」」(ヨハネ 20:25〜28)
<ヨハネとペテロに対して>
「イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。
ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれま す。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることがで きなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」(ヨハネ 20:25〜 28)
感覚的な人物トマスには、イエスは感覚的な証明によってご自身を知らせなさり、ヨハネとペ
テロに対しては、最初の場合(ルカ 5:7)と同じく大漁によってご自身を知らせなさいました。
(16)イエスの死体に巻かれていた亜麻布について
「(シモン・ペテロは)イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた
所に巻かれたままになっているのを見た。」(ヨハネ 20:7)
何の理由を語ろうとすることもなく、このような詳細な記事を付け加えていることは、実に不思
議というべきです。しかし、この説明のない一小事件の詳細な記録がいかに深遠な意味をもっ ていることでしょう。神の息が、冷たく黙している粘土の隙間を通って墓場の中に吹き込んだそ の瞬間に、イエスは悪魔と死とに打ち勝って立ち上がられたのです。彼の全生涯を通じて偉大 な印象を人々に与えた沈着と平静をそのままに、いとも平和に、いとも崇高に、死の床から起 きあがられた。そこには人間の持つ焦躁も狼狽もみられませんでした。
(ラザロの場合も復活と呼ばれています。彼は死にましたが、この世の肉体をもって蘇生した
のであって、巻かれていた布を解かなければなりませんでした(ヨハネ 11:44)。イエスは栄光の体 を持たれて復活されたので、この世の物質はもはや妨げとならないのです。戸を開け閉めする ことなく弟子のいる部屋においでになったり(ヨハネ 20:26)、去られたり(ルカ 24:31)しました。です から、イエスは巻かれた布を解く必要がなかったのです。)
これは実に小さい事柄のように見えますが、私たちはこうした小さい事実から豊かな意義を学
ぶことができます。この世の小説なるものが、その真実でない虚構の物語であるということを現 すのは、このような小さな点においてです。小説の多くは極微細な描写について事実を裏切る ものです。ところが聖書は、これを詳細に研究すればするほど、ますますその記事の真実であ ることを強く私たちに印象づけます。ですから、聖書は、物語に技巧を交えていない自然のも のであって、あらゆる技巧にまさります。(以下次号)
<今月の質問>
イエス・キリストの復活について考えましょう。
・・イエス・キリストの復活が事実であることを聖書によって述べて下さい。
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