「同労者」第99号(2008年1月)
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・サムエル
士師記にも女預言者デボラとか、その他に名前の出ていない預言者がいたことが記されて
いますが、モーセの次ぎに記されている重要な預言者はサムエルです。
サムエルが神にお会いした顕著な経験は、彼がまだ少年であった時でした。
「少年サムエルはエリの前で【主】に仕えていた。そのころ、【主】のことばはまれにしかなく、幻
も示されなかった。
・・神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている【主】の宮で寝てい
た。そのとき、【主】はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります」と言って、エリのとこ ろに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは、「私は呼 ばない。帰って、おやすみ」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。【主】はもう一度、サム エルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼び になったので」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ」と言った。サム エルはまだ、【主】を知らず、【主】のことばもまだ、彼に示されていなかった。【主】が三度目に サムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私 をお呼びになったので」と言った。そこでエリは、【主】がこの少年を呼んでおられるということを 悟った。それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『【主】よ。お 話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝 た。そのうちに【主】が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と 呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。【主】はサム エルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者 はみな、二つの耳が鳴るであろう。・・」
・・ サムエルは成長した。【主】は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかっ
た。
こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが【主】の預言者に任じられた
ことを知った。
【主】は再びシロで現れた。【主】のことばによって、【主】がご自身をシロでサムエルに現され
たからである。」(サムエル記T 3:1〜21)
キリスト者の間では、「【主】よお話ください。しもべは聞いております。」とサムエルが答えたこ
とがよく知られています。そのときのイスラエルの状況が一緒に記されています。幕屋の「神の もしびは、まだ消えて」はいませんでしたが、「【主】のことばはまれにしかなく、幻も示されなか った。」時でした。祭司エリの息子たちの悪行のため、人々がいけにえを捧げにくることに嫌気 をさしていた状況でした。
サムエルは神の幕屋に寝泊まりしていましたが、まだ「【主】を知らず」にいました。神はこと
ばだけを彼に示されたのではありませんでした。ご自身が彼のもとに来られ、彼のそばに立っ て親しく彼に語られたのです。「・・そのうちに【主】が来られ、そばに立って、これまでと同じよう に、『サムエル。サムエル』と呼ばれた。」とその状況が記されています。
彼の経験は、異象ではなく、神の臨在と語られることばでした。そして彼は、語られる神の言
葉を取り次ぐ人となりました。神のことばを取り次いでいるのですから、神はかれのことばを重 んじられました。
「【主】は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。」
それで、「こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが【主】の預言者に任
じられたことを知った。」のでした。
サムエル記のこの章の結びに、
「【主】は再びシロで現れた。【主】のことばによって、【主】がご自身をシロでサムエルに現され
たからである。」とあり、神は、預言者サムエルに対して、恒常的に顕現されたことが示されて います。
サムエルに関するこの記事について特筆すべきことは、直接書かれてはいませんが、彼の
「従順」にあります。
後のことですが、サムエルは従順でありましたから、サウルが不従順であることが痛いほど
分かったのです。前後は抜きにして彼のサウルに対する叱責のことばを引用しましょう。
「するとサムエルは言った。『主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その
他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けること は、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。 あなたが【主】のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』」(サムエル記T 15:22〜 23)
私たちの職務は、旧約の預言者とは異なりますが、その資質については、同一のものが求
められます。前述のモーセの謙遜(柔和)、サムエルの従順は、私たちが神のために働けるか 否かを決する大事な要件です。
「キリストは・・ 自分を卑しく(謙遜に)し、・・実に十字架の死にまでも従われました。・・そういう
わけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいな い今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。神は、みこころのままに、 あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ 2:6〜13)
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会会員)
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