| 
           
          
          「同労者」第100号(2008年2月)
                                  目次に戻る
           
          巻頭言 
          「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師
           
          また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリス トのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する 知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためで す。」(エペソ 4:11〜13) 
           私共の教会の聖別会で、今ジョン・ウェスレーの「クリスチャンと教会生活」をテキストに用い
           
          ています。私が中学生の頃に、一度この書物が同じように読まれていました。まだ子供だった 私達に、母は家庭でこの書を読んで聞かせ、わからない漢字にカナを付けさせました。読むこ とができるようになっても、その自分は到底内容を把握することまでは出来ませんでした。30 年ほど経って、新たにこの書物を開いてみると、子供っぽい字でカナがあちこちに付いている こと、両親が今の私の年代の時に学んだものだという思いがあって、とても感慨の深いもので した。 
           テキストが集会の中で読み進められていくうちに、再度用いられ、絶版になっているため持っ
           
          ていない若い方々や新しく教会に来た方達には、コピーを取って使ってもらう、そのようにして までも今の私達の教会に大切なものとして引き出されてきた意味を感じはじめました。6つの 章に分けられているその1つに、牧師との関係について示されており、そのはじめに「順い、服 す」べきことが示されており、幾度も具体的な内容と共に、そのことが記されています。 
           牧師との関係も、年齢差や、おかれている責任、取り組みなどによって、その牧師を通して
           
          語られたことをどのように自らの者として捉えていくことができるかが違ってくることでしょう。私 も若いときに牧師の言われることの真意が解らないことがたくさんありました。けれども解らな いまま持ち続けていた時期があり、それが後にあるほんの一言によって牧会者の内なる戦 い、期待、使命に生きる姿を見せられることに因って、以前の事と結び付き理解することがで きたことが幾度もありました。自らの知恵や経験の不十分な時に、そこにすぐ答えを求めようと すると、時には否定的なものとなることがあるでしょう。そしてそれは牧師に対してよりも、自ら の信仰の歩みに対して障害となるように思います。私は今まで、上手にまた迷わずに牧師との 関係を築いてきたわけではありません。しかし、その以前のことよりも、今そしてこれからその 関係の大切さを見失わないように生きることを願わしていただくと共に、その関係によって作り 上げられるのは冒頭の御言葉の中にあるように、キリストのからだを建て上げるためであり、 教会を愛し生きるものとなることを信じ行かせていただきたく願います。 ![]() 
           この書物の中に書かれている一節に、「あなた方が、あなた方の霊的指導者に良心的に従
           
          えば従うほど、神は指導者が神の御名によってあなた方の心に語ることばを一層強くあてはめ 給うであろう事を。」と、ありました。そしてそれによって、私たちは、それが確かに神の御霊に よるのである証拠を更に強くもつことが出来るでしょう。 
          そしてもう一つ確かな証拠を、先を歩んでおられる私たちの教会の柱となっておられる方々の
           
          信仰の姿と証しの中にもみることが出来ることを感謝し、私も牧師と共に生きる一人とさせてい ただきたく、ジョン・ウェスレーの著書にふれて尚、強く示されたことを感謝いたします。 
                                              (仙台聖泉キリスト教会会員)
           
          
  | 
      |||||||||||||||