「同労者」第100号(2008年2月)                           目次に戻る

聖書研究

万人祭司・万人予言者・万人王(第26回)
野澤 睦雄
 
2.旧約における三つの職務の考察(つづき)
 2.2 預言者(つづき)

・エリヤ
 エリヤについて、彼がどのような生い立ちで、どのようにして預言者となったか、聖書は全くな
にも記していません。彼の名が聖書に記された時点で、彼は既に預言者となっていました。
 彼は神の人(列王記T 17:18)であり、彼が祈ると神はイスラエルに雨を降らすことをとどめ(列
王記T 17:7)、彼が祈ると雨を降らされました(列王記T 18:45)。シドンのやもめの家の食料の
粉と油は彼のことば通り尽きませんでした(列王記T 17:16)。彼は死人を生かし(列王記T 17:
22)、天から火を呼び降しました(列王記T 18:38)。
 このエリヤが、神のお取り扱いを受けた記事はよく知られています。
「彼はそこにあるほら穴に入り、そこで一夜を過ごした。
 すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか」と仰せられ
た。エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々は
あなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私
だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎら
れ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかっ
た。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声
があった。
 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、
声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」
 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあな
たの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけ
が残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」
 主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそ
そいで、アラムの王とせよ。
 また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出の
シャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。
 ハザエルの剣をのがれる者をエフーが殺し、エフーの剣をのがれる者をエリシャが殺す。
 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをか
がめず、バアルに口づけしなかった者である。」(列王記T 19:9〜18)
 既に神の人であったエリヤは、なぜお取り扱いを受けなければならなかったのでしょうか。そ
の理由は、引用した聖書のことばを考察すれば分かります。
 まず彼の神観と神がご自身をここで示された姿は違っていました。彼の神は「火の神」でし
た。もちろん神は「焼き尽くす火」(ヘブル 19:10)でもあられますが、神は「火の中にも主はおられ
なかった。」ということばが示しているとおり、その時はそのような神の姿でご自身を示そうとは
なさらなかったということです。神は「かすかな細い声」で語るお方であられました。
 第二に、彼が見ていたものと、神がご覧になっていたものが違っていました。彼は「ただ私だ
けが残りました」と言いましたが、神は「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これら
の者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」と言われまし
た。
 ここで私たちが教えられることは、預言者は、その神観、人間観、人生観、世界観、歴史観、
価値観、等々について神のご覧になるように見ていなければならないということです。
 彼が勢いよく事を行っているとき、神は彼にご自身をお渡しになり、彼の望むことを何でもな
さいました。彼が挫折し、「もう死にたい」と言い出したとき、それが神が彼をお取り扱いになる
好機でした。神は彼をお取り扱いになり、彼は新しい人となりました。その後の彼の最も重要な
仕事は、後継者であるエリシャを育てることでした。
 預言者は「神の人」でありましたが、私たちもはばからずに私たちはキリスト者、クリスチャ
ン、すなわち「キリスト(神)の人」であると公言しています。
 ですから私たちも旧約の預言者たちと同様に神の人に相応しい資質が求められます。神が
ご覧になるように物事を見ることができること、それが預言者同様新約のキリスト者の欠くこと
のできない資質です。
 エリヤが求められ、そしてお取り扱いをうけて与えられたと同様に、私たちも謙って、生ける
神のみ手に私たち自身を委ね、そのお取り扱いを受け、「キリストの人」に相応しい資質を与え
られたいものです。その時私たちの価値観は変わり、地のものでなく天のものが私たちの「宝」
(マタイ 6:20)に見える人となることでしょう。そして物事の背後にある神のみ手を見ることでしょ
う。
 その跡を継いだエリシャが「『エリヤの神、主はどこにおられるのですか』と言った」(列王記
U 2:14)ことは彼の働きの成功を意味しています。私たちは後継者である自分の子供たちが
「お父さんの神、お母さんの神はどこにおられるのですか」と神に叫ぶ者となったらどんなに嬉
しいことでしょう。それが信仰者への報いではありませんか。エリヤはその報いを得ました。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会会員)




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