「同労者」第101号(2008年3月)                          目次に戻る 

論  説

 − イースター 

「さて、週の初めの日に、・・・ペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふ
たりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。
シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれてい
た布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。その
とき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。彼らは、イエスが
死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。」
(ヨハネ 20:1〜9)


 今年の教会の暦では、3月16日が棕櫚の聖日(パームサンデー)、23日が復活節(イースタ
ー)です。私たちは、その現場に居合わせたわけではありませんが、静かに聖書を開き、記さ
れている記事に心を留めることができるのは幸いなことです。
 イエスがなさった多くの徴を見た人々が、これぞ私たちの王として、喝采をもって迎えたパー
ムサンデーでした。彼らが期待したことは、イエスがそのみ力をもって、ローマの圧政を退け、
ダビデ王国の栄光を復活させることであったことでしょう。けれども、イエスは、宮潔めをされ、
説教をされ、数人の病人を癒されただけでした。彼らのその勝手な期待が裏切られた時、彼ら
は、強盗で人殺しのバラバを釈放せよ、イエスを十字架に架けろと叫ばせるものとなったので
した。私たちも勝手な期待を警戒しなければなりません。
 イエスは自らのなさる十字架の贖いについて、三度弟子たちに説明されました。
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たち
から多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たち
に示し始められた。」(マタイ 16:21)他。しかし、彼らは何を言われているのか理解できなかったこ
とが記されています。
 イエスが復活された朝、彼らはイエスの死体がなくなったのを見ても、なお理解できませんで
した。冒頭のみことばの中で、ヨハネはこう告げています。
「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していな
かったのである。」
 父なる神は御子を「よみに捨ておく」(詩篇 16:10)ことはなさいませんでした。
 イエスの復活は、私たちの「栄光の望み」(コロサイ 1:27)です。それは私たちの「うちにおられる
キリスト」(コロサイ 1:27)であり、私たち自身が、イエスの復活と同じ様に復活させて頂ける望みで
す。
 イースターに、聖書の記すこれらの事柄に、思いを巡らす時を持とうではありませんか。




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