「同労者」第101号(2008年3月)
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第8章 すべてであり、すべてのうちにおられるキリスト
「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人と
いうような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるので す。」(コロサイ3:11)
私たちが、そうあっていただけるように努めるなら、キリストは私たちにとってすべてであられ
ます。私はこの「すべて」という語を強調したいと思います。ある人々はキリストを「砂漠の地か ら出る根のように・・・私たちが見とれるような姿もなく、・・・私たちが慕うような見ばえもない」存 在としてしまいます。彼らにとって主は無です。彼らは全く主を求めていないのです。また、ある クリスチャンたちは、とても小さな救い主像しか描いていません。彼らは主のすべてを受けよう とせず、偉大で力強い御業を成していただこうとしないからです。しかし一方で、主を力強い救 い主として掴んでいる人々がいます。彼らは主を偉大で力あるお方であると信じているからで す。
もし、キリストご自身が私たちに対してどうありたいと望んでおられるか、を知ろうとするなら、
まず第一に主を罪からの救い主として知らなくてはなりません。キリストが地上にお生まれにな ることを告げ知らせるために、主の使いが天から降りてきた時に、主の名を告げて何と言った か覚えていますか。「その名をイエス(主は救い)とつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその 罪から救ってくださる方です」と言ったのです。私たちは罪から分かたれているでしょうか。主は 私たちを罪の中で救うために来られたのではありません。罪から救うために来られたのです。
(訳者 仙台聖泉キリスト教会 会員)
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