結実  

7.教会と聖潔



「教会は、真理の柱また土台です。」(テモテT 3:15)
「キリストがそうされた(ご自身をささげられた、十字架にかかられた)のは、…聖く傷のないもの
となった教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ 5:26〜27)
「これらのわたしの兄弟達、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたので
す。」(マタイ 25:40)


 第5章救いの経綸において、神が人間に備えて下さった福音の内容を示しました。第6章聖
霊と聖潔において、その神が備えられた福音の内容の、この地上で人間が信仰をもって歩む
部分に対して、どのように聖霊が関わられるかということを述べました。本章では、その人間が
この地上で信仰をもって歩む場について考察します。その場こそ教会なのです。聖霊はキリス
トの霊であられ、キリストの体である教会に宿っておられます。

 「教会」と「聖潔」の間にどんな関係があるのでしょうか。
 私たちは、救いを求め、潔めを求めますが、使徒の働き以下の新約聖書は教会について記
述しています。このことは、教会こそが聖霊の時代のテーマであることを示しています。なぜで
しょうか。 
 「あなたがたは、永遠のいのちを得ようとおもって、(旧約)聖書を調べています。しかしその
聖書は、『わたし(イエス・キリスト)』について述べているのです。」(ヨハネ 5:39) とのイエスのこ
とばを思い出さないでしょうか。新約の時代には、こう言われることでしょう。「あなたがたは、
聖潔を得ようと思って、(新約)聖書を調べています。しかし、その聖書は、『わたし(キリスト)の
体である教会』について述べているのです。」

 それでは、本当に聖書は教会について述べているのか、聖書を取り上げてみます。
 四福音書に見るイエス・キリストは、教会についはほとんど語られませんでした。しかし、ピリ
ポ・カイザリヤ地方に行かれたとき、「あなたがたはわたしをだれだといいますか。」(マタイ 16:
15)というイエスの質問に答えて、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ 
16:16)と信仰告白したことを受けて、イエスは「あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上
にわたしの教会を建てます。」(マタイ 16:18)と言われました。この内容は、イエスの世を去ら
れた後に来るものは、教会であることと、その主導的役割をペテロが果たすことを示していま
す。プロテスタント教会の人々は、ローマ・カトリック教会の言い分を嫌って、この岩をペテロ以
外のものにしたがりますが、素直にイエスの言葉はペテロを指していると言った方がよいので
す。事実ペテロは、ユダヤ人の教会の始まりに主導的役割をしました。(使徒 2:14〜42)ま
た、はじめて異邦人を教会に加えたのもペテロでした。(使徒 10:1〜2:18、11:1〜18、15:1
〜33)ただ、イエスが言われたのは、ローマ・カトリック教会の主張のように、ペテロの権威がカ
トリックの祭司に受け継がれるのではなく、ペテロ自身が教会の誕生に主導的役割を果たすこ
とだけです。いずれにしても、教会が建てられるということが、イエスの述べられた内容の主た
ることなのです。イエスが教会についてほとんど語られなかったのは、教会というテーマは、潔
められることすなわち聖霊のバプテスマを受けること、聖霊に満たされることと同様に、聖霊が
おいでになってから、弟子たちが理解できるようになるものであったからでした。「わたしには、
あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたにはそれに耐える力がありま
せん。しかしその方、すなわち真理の御霊が来るとあなたがたをすべての真理に導き入れま
す。」(ヨハネ 16:12〜13)「助け主、…聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え…ます。」(ヨハネ
 14:26)
 使徒の働きのはじめにおいて、聖霊が降臨されました。(使徒 2:1〜4)次にペテロと使徒た
ちの働き(使徒 2:14〜5:42)、またステパノをはじめとする次に加えられた働き人たち(使徒 
6:1〜8:40)の働きで教会が形成されました。やがてユダヤ人だけでなくサマリヤ人も(使徒 
8:5〜17)異邦人(使徒 10:1〜48)も教会に加わるに至りました。
 そこにパウロが加えられて(使徒 9:1〜30、使徒 11:25〜26)異邦人世界への本格的な宣
教が始められました。(使徒 13:1〜28:31)使徒の働きの内容を要約するならば、"使徒の働
きとは、聖霊の降臨と聖霊に満たされた人々が教会を建設したことに関する記述です。"と言
えるでしょう。

 ローマ人への手紙には、「救いの教理」(ローマ 1:18〜5:31)と、「潔めの教理」(ローマ 6:1〜
8:39)が説明されたあと、残りは全部教会の中でどう生きるべきかが解説されていて、「結実の
教理」の解説というべきものです。

 コリント人への手紙第一は全部、教会の抱えた課題をどうすべきかを述べたものといっても
過言でありません。「兄弟たちよ。私は、あなた方に向かって、御霊に属する人に対するように
話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。…あなた
方のあいだにねたみや争いがあることから…」(コリントT 3:1〜)「あなたがたの間に不品行が
あるということが言われています。…」(コリントT 5:1〜)「あなたがたの中には、…聖徒たちに
訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人が…」(コリントT 6:1〜)「…不品行を
避けるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち…」(コリントT 7:1〜)
以下、偶像のこと、かぶり物の風習のこと、愛餐のあり方、正餐のこと、御霊の賜のこと、愛に
ついて、キリストの復活について、信者の復活についてなどの解説が続きます。これらはみな
その時コリントの教会が抱えていた問題をどのように扱ったらよいかの説明と指示です。

 コリント人への手紙第二は、最初の手紙とは何と違った内容となっていることでしょうか。そ
こにコリント教会の人々の大いなる成長をみます。前回の手紙では書くことの出来なかった、
キリストにある苦難と聖霊による慰め、喜び、また心に聖霊の満たしを受けること、キリストの
証人に加えられること、聖霊による自由と栄光への変貌、キリストの御顔にある神の栄光を知
る知識が与えられていることが述べられています。そして、そのすばらしい宝を土の器である
肉体の中に宿している、今の艱難はやがて大いなる栄光をもたらすと。だから神の恵みをむだ
に受けないように、この世からしっかりと分離して、「神を恐れかしこんで聖きを全うしようでは
ありませんか。」(コリントU 7:1)とパウロは勧めます。
 このように成長した教会の中にまた別の角度から問題が持ち込まれてきたことが伺われま
す。それは「にせ使徒」(コリントU 11:13)に惑わされて、パウロの教えから離れていく危険でし
た。パウロは神から委ねられた使命に自分がどのように忠実に生きているかを示し、かれらが
「キリストに対する真実と貞潔を失う」(コリントU 11:3)ことがないようにさせました。「私たちは
あなたがたが完全なものになることを祈っています。」(コリントU 13:9)

 ガラテヤ人への手紙では、「忍び込んだにせ兄弟たち」(ガラテヤ 2:4)が問題でした。その
中心的な論争点は、「旧約の律法」との決別でした。「人は律法の行いによっては義と認めら
れず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラテヤ 2:16)こと、これが
パウロの主張でした。ガラテヤの教会の人々は、割礼派の人々に惑わされました。そのため
にパウロが説明したことによって、旧約と新約との対比という視点から福音の内容が明らかに
なりました。私たちの古い人は「キリストとともに十字架につけられ」(ガラテヤ 2:20)、新しい人
がキリストとともに生きるのであって、「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ 2:20)こ
と、「キリストは自由を得させるために、私たちを(古い人、罪の性質から)解放してくださいまし
た。」(ガラテヤ 5:1)パウロのこの働きによって、ガラテヤの教会が守られたのです。

  エペソ人への手紙では、イエス・キリストによって私たちが「天にあるすべての霊的祝福」(エ
ペソ 1:3)に与るのだとパウロは書き始め、「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血に
よる贖い、すなわち罪の赦しをうけているのです。」(エペソ 1:7)「彼(御子)にあって、御国を受
け継ぐ者ともなったのです。」(エペソ 1:11)と述べ、こう付け加えます。「あなたがたも…約束の
聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。」
(エペソ 114)そして「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上
に立つキリストに教会をお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものを
いっさいのものをもって満たすことのできるかたの満ちておられる所です。」(エペソ 122〜23)
 そして、エペソの教会に加えられた人々がかつてどのようなものであったか、すなわち、「罪
過と罪との中に死んでいた…自分の肉の欲の中に生き、肉と心のおもむくままを行い…生ま
れながら御怒りを受くべき子ら」(エペソ 2:1〜3)であったことを指し示します。
 しかし、このようなものが、約束の民とひとつになり、キリストの教会として建てあげられること
が、神の「奥義」(エペソ 3:6)であるのです。
 以下、その奥義がいかに栄光に富んだものであるか解説されます。その奥義の神髄とも言
えるものそれは「キリストと教会である」(エペゾ五の三二)のであって、「(キリストは)教会をき
よめて聖なるものとする…しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものと
なった栄光の教会を、ご自分の前に立たせる」(エペソ 5:26〜27)ことのために己を捧げられ
たのだと解説されています。

 ピリピ人への手紙では、「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは主にあっ
て一致してください。」(ピリピ 4:2)との、パウロの言葉から分かるように、教会の中に於ける一
致が課題なのです。「…もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりが
あり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、
同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」(ピリピ 2:1〜2)その一致は、キリ
ストの心を心とすることによってできるのです。そのためパウロはキリストの心を指し示します。
「キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えない
で、ご自分を無にして、仕えるものの姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ 26〜
7)と。

 コロサイ人への手紙では、「神の奥義であるキリスト」(コロサイ 2:2)、信仰の奥義である「あ
なたがたの中におられるキリスト」(コロサイ 1:27)が示されています。「御子は、見えない神のか
たちであり、…万物は御子にあって造られ…。…御子によって造られ、御子のために造られた
のです。御子は、万物より先に存在し、万物は御子によって成り立っています。また御子はそ
の体である教会のかしらです。…その十字架の血によって平和をつくり…御子によって和解さ
せてくださったからです。」(コロサイ 1:15〜20)
 「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちた御性質が形をとって宿っています。」(コロサイ 2:9)こ
のキリストがあなたがたの中におられるのですから、「あなたがたは、キリストにあって、満ち満
ちているのです。」(コロサイ 2:10)
 「こういうわけですから、…上にあるものを求めなさい。」(コロサイ 3:1)、地上のからだである
汚れたものを「殺してしまいなさい。」(コロサイ 3:5)そして、「神に選ばれた者、聖なる、愛されて
いる者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。」(コロサイ
 3:12)とパウロは勧めます。これを受けて、「妻たちよ。…。夫たちよ。…。子どもたちよ。…。
父たちよ。…。奴隷たちよ。…。主人たちよ。…。」(コロサイ 3:18〜4:2)と、教会を構成している
人々それぞれに、その立場に相応しいありかたをするようパウロは勧めています。

 テサロニケ人への手紙第一 テサロニケ教会の信者たちはパウロが神に感謝できるよう
な、良い信仰の持ち主たちでした。「あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模
範となったのです。」(テサロニケT 1:7)「あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなので
す。」(テサロニケT 2:20)この教会の人々にパウロは、「神のみこころはあなたがたが聖くなるこ
とです。あなたがたは不品行を避け、…。神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためで
はなく、聖潔を得させるためです。」(テサロニケT 4:3〜7)と念を押しました。
 この教会で議論されていたことは、イエス・キリストの再臨の時、先に死んだ人々はどうなる
のかということでした。パウロはその問いに答えて再臨の時はどうなるのかを解説しました。(テ
サロニケT 4:13〜18)再臨がいつ起きるのかは分からないけれども、備えのあるあなたがたに
は、「その日が、盗人のようにあなたがたをおそうことはありません。」(テサロニケT 5:4)しか
し、「目をさまして、慎み深くしていましょう。」(テサロニケT 5:6)以下このように生きましょう、と
いう勧めと、祈りと信仰の言葉が述べられます。すなわち、「平和の神ご自身が、あなた方を全
く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのな
いように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召され
た方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(テサロニケT 5:23〜24)

 テサロニケ人への手紙第二が書かれた時には、イエス・キリストの再臨がもっと早くあると
思っていたのに再臨はなかなか訪れず、迫害と艱難があったため、疑問を持った人々がいた
ように見えます。パウロは、神はいずれ正しい裁きをされること、艱難に耐えて信仰を保つ者
に報いたもうことを述べています。また再臨はもう既にあったのだ、と言っている人々もいまし
た。それに対して「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再びこられることと、私たちが
主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いがあります。…主の日がすでに来
たかのように言われるのを聞いて、すぐ落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでくださ
い。…まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないか
らです。…」(テサロニケU 2:1〜3)と教え、以降に御再臨の前のサタンの活動について述べてい
ます。「しかし、神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救
いにお選びになったのです。」(テサロニケU 2:13)から「兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、
または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(テサロニケU 2:15)「締まりのない歩み
方を」(テサロニケU 3:6)しないで、労働と良い業に励み、「自分で得たパンを食べ」(テサロニケU 
3:12)主のおいでを待ちなさい、とパウロは指示しました。

 テモテへの手紙テトスへの手紙は、主の働き人は、どのような心がけで生きていかなけ
ればいけないか、神の家である教会を、どのように牧会するのかを、「たとい私(パウロ)が(そ
ちらに行くのが)おそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知って
おくため」(テモテT 3:15)書かれたものであって、すべて教会のことについてであると言えま
す。

 ピレモンへの手紙は、「キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たち
の愛する同労者ピレモンへ。…獄中で生んだわが子オネシモのことをあなたにお願いしま
す。」(ピレモン 1、10)とあるように私信ですが、教会の中で人をどのように扱わなければならな
いかということに関する具体例となっています。

 ヘブル人への手紙には、御子に関する解説がなされ、「こういうわけですから、兄弟たち。
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご
自分の肉体という垂れ幕を通して、わたくしたちのためにこの新しい生ける道を設けてくださっ
たのです。また、私たちには、神の家(教会)をつかさどる、この偉大な祭司があります。その
ようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水
で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。…ある
人々のように、いっしょに集まるのやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日(再臨)が近
づいているの見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル 10:19〜25)と、この偉大な
御子は、教会の祭司であることが示されています。

 ヤコブの手紙は、国外に散っている十二の部族(イスエラエル人)へあてて書かれたもので
すが、その中心的な論題は「信仰」と「行い」がどういう関係にあるかと言うことでした。
 「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」(ヤコブ 2:23)ということの説明
に、パウロはローマ人への手紙において、「星を数え」(創世記 15:5)ているアブラハムを取り
上げています。(ローマ 4:1〜25)しかし、ヤコブは、アブラハムがその子「イサクをささげた」(創
世記 22:1〜19)ことを引用し、その結果として、「アブラハムは神を信じ…という聖書のことば
が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ 2:23)と解説しています。前にも述べたよう
に、信仰とは行いそのものなのです。その行いによって示す信仰を教会の中でこのように現し
なさい、と言う勧めが、ヤコブの手紙の後半に記されています。「あなたがたのうちに病気の人
がいますか。その人は教会の長老たちを招き、…祈ってもらいなさい。…互いに罪を言い表
し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力がありま
す。」(ヤコブ 5:14〜16)行いをもって兄弟を愛し、ともにとりなすことそれが教会の働きに多い
に力を加えるものであることが強調されています。

 ペテロの手紙第一では、あなたがたは「たましいの救いを得ている」(ペテロT 1:9)のです
から、「あなたがたを召して下さった聖なる方にならって、あなた方自身も…聖なるものとされな
さい。」(ペテロT 1:15)と言うことを基本に、教会の中でどのように生きていくべきか、次々と勧
めがなされています。「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄
弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」(ペテロT 1:22)
「霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として…神に喜ばれる霊のいけにえをささ
げなさい。」(ペテロT 2:5)
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。…以
前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり…愛する者たちよ。あなたがたにお勧めし
ます。…」(ペテロT 2:9〜11)そして、この社会で、どう生きていくべきかが取り上げられていま
す。「妻たちよ。自分の夫に従いなさい。」(ペテロT 3:1)と勧め、その理由をあげています。長
老達には、「あなたがた(長老たち)は、…群の模範となりなさい。」(ペテロT 5:3)、若い人た
ちには、「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。…」(ペテロT 5:5)と。

 ペテロの手紙第二には、「今私がこの第二の手紙をあなた方に書き送るのは、これらの手
紙により、あなたがたの記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためで
す。」(ペテロU 3:1)とその書かれた目的が記されています。そして、こう述べています。「その
(イエスの)栄光と徳によって、すばらしい約束が私たちに与えられました。…あなたがたが、そ
の約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神の御性質にあずかる者となるためで
す。こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識
を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛
を加えなさい。」(ペテロU 1:5〜6)この諸徳を身につけるなら、「実を結ばない者になることは
ありません。」(ペテロU 1:8)ペテロは直接教会の中でこうせよとは言っていませんが、この実
は隣人との関係で結ばれるものであって、教会はその場となるものです。

 ヨハネの手紙第一でヨハネは、「もし神が光りの中におられるように、私たちも光の中を歩
んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよ
めます。」(ヨハネT 1:7)と述べています。私たちは、使徒信条を自分たちの信仰告白として暗
唱し、「われは…聖徒の交わり…を信ず。」といいますが、ヨハネは「光の中を歩む」と、「交わ
り」が保たれ、その上にたって「御子イエスの血が私たちを潔め」ると言っています。
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに
愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」(ヨハネT
 3:16)兄弟は教会の中にいます。その愛は、具体的であることが求められます。「ことばや口
先だけで愛することをせず、行いと真実を持って愛そうではありませんか。」(ヨハネT 3:18)当
時の誤った教えとの戦いがこの手紙に書かれていますが、それに触れることはここでは割愛し
ます。

 ヨハネの手紙第二は、「選ばれた婦人とその子どもたちへ」(ヨハネU 1)書かれた手紙で
す。「あなたの子どもたちの中に、…真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非
常に喜んでいます。」

 ヨハネの手紙第三はガイオという人にあてた手紙です。このガイオという人が、次のように
評価されている中に教会の姿があります。「旅をしているあの兄弟達のために行っているいろ
いろのことは、真実な行ないです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかしし…」(ヨハ
ネV 5〜6)

 ユダの手紙には、教会ということばが使われていません。しかし、この手紙は教会に宛てた
ものであることは文面から明かです。「…ひそかに忍び込んできた…」(ユダ 4)とか、「…あな
たがたの愛餐の…」(ユダ 12)というようなことばがそれを示しています。「愛する人々よ。あな
たがたは、自分が持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあ
われみを待ち望みなさい。」(ユダ 20〜21)

 ヨハネの黙示録は、「これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、…これ
をしもべヨハネにお告げになった。」(黙示 1:1)ものであって、「アジヤにある七つの教会」(黙
示 1:4)宛に書かれました。預言の内容には触れませんが、「耳のある者は御霊が諸教会に
言われることを聞きなさい。」(黙示 2:7)との命令に私たちも従わなければなりません。


 以上、長々と新約聖書について述べたのは、「新約聖書は、キリストの体である教会につい
て記している。」ことを信じない人々のために、確かに新約聖書はキリストの体である教会につ
いて記していること、キリストが「聖く傷のないものとなった栄光の教会を、…立たせる」(エペソ 
5:27)ことを、私たちを用いてなされること、すなわち「教会の建設」が私たちの信仰生活の中
心テーマであることを示すためです。
 このように神は教会を示しておられるのですから、教会を探求することこそ、私たちが潔めを
得、結実と成長に与ることのできる唯一の道です。
 そこで、本章では教会をテーマとして取り上げ、教会について次の諸点を考察します。
 ・私たちが取り組まなければならない教会
 ・教会の関係…使命、任命、神から委ねられた人、師と弟子、夫婦、親子
 ・教会の関係の中で何が造られるのか…素地、心の能力、資質
 ・その方法…人格の交流
 ・教会と結実


7.1 私たちが取り組まなければならない教会

 教会をどのようなものと考えるか、つまりどのような教会観を持っているかは、私たちの信仰
生活を大きく左右すると言っても過言ではありません。教会に何を期待し、教会に対して何を
献げ、教会のためにどのように働くかは、自分の持っている教会観に支配されます。
 私たちが、自らの救い、聖潔、信仰の結実、成長といったことを、実現する場が教会です。で
すからそのことを考えると、私たちが取り組むべき教会の範囲は自ずと定まってきます。それ
は、自分の所属する地域教会とその働きの範囲にある教会ということであって、教会論を網羅
するような働きを考える必要はなく、「聖なる公同の教会」というようなことは、あまり意識する
必要はありません。なぜなら、自分の所属する教会を神の喜びなさるようにしていくことこそ
が、聖なる公同の教会を建て上げることなのです。

 教会をよく観察してみると、実に色々な人々がいることが分かります。教会の歴史、集まって
いる人の人数や各自の信仰経験、また、その職業や教会の外の世界における社会的内容も
教会に影響を与えていることが見られます。何十年も教会に来ている人もいれば、昨今教会
に加わった人や求道中の人もいます。男も女もいます。老人もいれば、壮年の人、青年、少
年、幼児や赤ちゃんもいます。健康な人と病気の人、富んでいる人と貧しい人、この世の生活
で地位のある人ない人、この世の学問をした人としなかった人、またこのような視点では線引
きができない中間の人もいます。

 その中で注目すべきことは、ある人は教会の中でよく教会の重荷を担いますが、ある人は教
会の重荷となっていること、それがその時と状況によって担う人と担われる人とが入れ替わっ
たりしますが、信仰歴が長い人が重荷を担う側の人になっているとは限らないことです。
 教会は宗教の場であって、そこに集まっている人々の品性、人間性といったものが問われる
場なのですから、いつの間にか、この人はしっかり神を信じている信仰に満たされた人である
とか、この人は何と愛情豊かな人かとか、側にいる人を楽しくさせる人とか、分かってきます。
また一方、この人は吝嗇(けち)だ、この人は偉くなってしまっている(高慢だ)、この人はこの
世の楽しみを好むとかといったことも分かってくるものです。またどうしてこのようなことを理解
しないのだろうか、と首をかしげたくなるようなこともあります。他の人のことが分かるように、自
分のことも他の人が分かっているのです。周囲の人を恐れるのではなく、神を畏れて自らの道
を真っ直ぐにすることがそこに求められています。
 いくつかの教会が集まって教団を形成し、その中の一教会として自分の所属する教会がある
ことが多いわけですが、一つの教会には、その教会を牧会する牧師がいて、そこに一般の信
徒が集まっている形をとっていることがほとんどでしよう。新約聖書を開いてみると、聖霊が降
臨されて教会が造られた後、かなり早い段階からこの教会のありかたになったことが分かりま
す。従って、神もこの組織形態をよしとされているといえます。そして、教会全体に最も大きな
影響を与えているのは、牧師の如何です。
 教会の中において、一人の男と一人の女が夫婦となり、二人の間に生まれる子供たちが加
えられて家庭が形成されています。家庭は教会の中の一単位です。勿論日本では、夫婦の一
方のみが救われて教会に加わっている場合も沢山あります。
 同時にまた、教会全体が神の家族である、とされています。私たちは不信者の親族にまさっ
て、主にある兄弟姉妹と結ばれていることが求められています。
 教会の中の人であるからといって、何でも意見をいってよいのではありませんし、何か困った
ことがあるからといって、誰でもかまわず手助けをしようと乗り込んでいってよいのではありま
せん。そこに、神が特定の人を導かれて誰かを助けさせたり、誰かの訓練の場を造られたりな
さるのです。そのために、次の"教会の関係"ということを理解しておかなければなりません。


7.2 教会の関係…使命、任命、神から委ねられた人

 「教会の関係」とはどのようなことか理解するためには、「この世の関係」ということと比較して
みることが適切でしょう。「この世の関係」とは、神に関わりのない、あるいは神が放置されてい
る関係、もっと積極的にサタンが支配している関係といえる二人以上の人間の間に生じている
関係です。それに対し、「教会の関係」は二人の人間の間に神が入っておられる関係を言いま
す。
 キリスト者の人生すべてを神がご存じであること、神が関心を持たれて見守っておられること
も事実です。しかし、神が喜びなさることと許容されることとは違います。キリスト者が、この世
の原理に従って生きることを神が許容し、あるいは放任されることもあります。
 私たちが誰かと関係を持つとき、どちらの関係にあるかは、私たちが神とどのような関わりを
もって生きているかによって左右されます。教会の関係はまた、神の任命、使命の対象となる
相手と人格的取り組みをする関係であるともいえます。二人以上の人が、神経験に係わる問
題としての関係を持つことであって、単に信者同志だけでなく、不信者との関係も含まれます。
 私たちが誰かと関係を持つということは、一つの課題を二人で担うとも言えます。一つの課題
を二人で担うとは、昔の篭かきが一つの篭を棒につけ二人で両側から持って担うというような
場合です。しかし、二人の人の間の関係は、相手自体が課題であることが多いものです。相手
自体が課題であるとは、夫婦の間に不一致があってうまく生活していけないとか、子どもが親
を困らせるような行状であるとか、会社の同僚に我が儘な人がいて煩わすとか、といったことで
す。繰り返し述べていますが、ひとつの課題を二人で担うという内容は、例えば「説教は説教者
と聴衆から成り立つ」ということです。説教者無く説教はありません。と同時に聴衆無く説教は
ありません。説教が働くことができるのは、説教者と聴衆がそれを話す側と聴く側を担うからで
す。
 神は人間の人格と人格の交わり、つまり人間が他の人間と交わって生きていく必要を認めら
れました。「人がひとりでいるのは良くない。」(創世記 2:18)と。このひとりの男アダムをみて
神がなさったことは、かれにひとりの女を妻として与えることでした。やがて神は、アブラハムと
イサクに象徴される親子の関係を示されました。またエリヤとエリシャに示されるように預言者
の師と弟子の関係を示されました。
 神の置かれた教会の組織によって、教会の関係が常時成り立っているのは、「牧師と信徒の
関係」、「夫と妻の関係」、「親と子の関係」などです。
 これらの関係を、神学的視点で表現すると、神が二人の人を、神が目的をもっておられるあ
る事柄に一緒に取り組みさせなさることである、と言えます。説教は、説教者だけではできませ
ん。説教者と聴衆がいて説教ができるのです。牧師だけがいても牧会はできません。牧師と信
徒がいて牧会ができます。信徒だけで導きをうけることはできません。指導する牧師がいては
じめて導きを受けることができます。妻がいない人が夫婦の関係を持つことはできません。夫
と妻がいて妻を愛すること、夫に従うことができます。親だけがいても、子を育てることはできま
せん。親と子どもがいて子どもを育てること、親に従ったり教えられたり、愛されたりできるので
す。
 誰かを救うことは、救われなければならない人がいるときできます。救われるためには導い
てくれる人が必要です。潔めはただひとりでできるものではありません。潔めの必要を示し、潔
めの証詞を聞き、潔められた人の生涯を見、潔められるにはどうしたらよいか教えられ、共に
祈る時をもって頂いてできるものです。勿論すべての項目が揃っている訳ではありませんが、
どこかでこれらのことを受けているものです。

 従来の福音経験に対する視点は、一方の人だけを見ているのです。誰かが救われるとき、
そこに救う人の経験と救われる人の経験があり、それを一つの事としてみるべきなのです。そ
のように見るとき、新約の予言者、新約の祭司、新約の王が見え、また「聖徒の交わり」がそこ
にあることが分かります。
 またそれらの関係は、一方の人は神が派遣された人であり、もう一方の人はその人を通して
神との関係をもつことが多いのです。そのとき派遣された人は神の権威を持っています。導か
れる側の人がその人を受け入れることは神を受け入れることであり、拒絶することは神を拒否
することになります。パウロがテサロニケの教会の人々に書き送った、「あなたがたは、私たち
から神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のこ
とばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働い
ているのです。」(テサロニエT 2:13)ということばは、様々な事態ごとに形を変えて存在し続けて
います。
 心に留めて置かなければならないことは、神から派遣される人が不完全なので、神が直接自
分に語ったり、取り扱ったりして下さらず、人間が間に入ることを承知できない人が断然多いと
いうことです。また同じ人でも、ある時またはある事柄については、神の代務者であるところの
新約の預言者や祭司や自分を支配する王に当たる人が神と自分との間に入ることを承知でき
るけれども、次の時点、別な事柄になると承知できない場合も多くあります。若い時、牧師によ
く従って信仰の勇者と見えた人々がいつの間にか教会からいなくなることがありますが、これら
はその実例なのです。
 愛は、愛する人と愛される人とがおり、愛さなければならない課題があり、そこに神の導きが
あるときはじめて、行いうるもので、愛の結実がそこに認められます。
 では、教会の関係とはどのようなものか、実例を引用して説明します。

 福島県喜多方市からすこし奥に入った山村に、後藤さんという方がいました。この人は荒川
聖泉キリスト教会の遠藤さんの友人ですが、中学生のときスキーで立木にぶつかって脊髄を
損傷し、以後寝たきりの人生を送りました。しかし彼はキリストを信じるに至りました。遠藤さん
は仙台聖泉キリスト教会の山本光明牧師に、この友人を慰問してやって貰いたいと頼みまし
た。そこで山本牧師は月に一回、この後藤さんの慰問にでかけるようになりました。しかし大変
交通の便が悪く、一日がかりで出かけるのですが、後藤さんのところにいられる時間はほんの
僅かしかありませんでした。私が自動車を買ったので、…薄給のため六畳一間に夫婦二人で
住んでいた時であったので、生活とのバランスから言えば"乞食が馬を貰ったよう"でしたが
…、私の自動車で一緒にいくと時間に制約されないので好都合でした。そこで私もほとんど毎
回同道するようになりました。これは神の導きです。私がはじめて訪問したとき、彼はもう四十
歳になっていました。この長く「病んでいる人を慰問する」ことができたことは、神に与えられた
特権であって、ここに教会の関係があります。
 では、後藤さんのように、寝たきりの人がいると知ったなら、だれでも皆訪問しなければなら
ないのでしょうか。仙台市の郊外に西仙台病院という病院があります。仙台聖泉キリスト教会
に斎藤さんという人がおりましたが、その人のお母さんが寝たきりになってその病院に入院し
ていました。その方を慰問する機会がありましたが、そこには寝たきりの人が"ゴマンといる"と
いう表現がぴったりなほどに沢山いました。しかしそれらの人を慰問することは、私の使命では
ありません。つまり斎藤さんのお母さん以外の人たちとは教会の関係ではないのです。
 異邦人がやってきたとき、イエスは「わたしはイスラエルの子らにしかつかわされていない。」
と言明しました。もちろん、スロ・フェニキヤのギリシャ婦人やローマ人の百人隊長、サマリヤ人
の女、らい病を癒された十人のひとりであったサマリヤ人など異邦人でイエスの恩恵に与った
人々がいます。しかし、基本的にはイエスの宣教の範囲はユダヤ人でした。異邦人が教会に
加えられるのは、イエスの時ではなく、聖霊がおいでになってからなのです。ですから、教会の
関係には時というものが大切であることが分かります。

 信者がある会社に勤めたとします。そこでその人は会社の仕事に関わる沢山の人とつきあう
ことになります。こちらが信者であるからと言って、全ての人間関係が教会の関係になるので
はありません。同様に信者である青少年達が、学校に行ったとします。そこで彼らは沢山の人
とつきあうことになります。彼らの関係もそのまま教会の関係になるのではありません。ジョン・
ウェスレー(79)は、「私は…偶然によらず選択によって友人を決めていくことにした。」といって
います。教会の関係でない関係は、全部この世の関係です。
 しかし、あるこの世の友人を伝道しようと心に定め、その人と接触していくことが始まったな
ら、その人と教会の関係に入ります。

 牧師と信徒との関係を考えてみましょう。牧師と信徒との関係には、神が教会を養うようにと
命じた任命がその前提として存在します。牧師は信徒の信仰の当事者としてこれを導くので
す。よくカウンセリングということが言われますが、カウンセリングでは、カウンセラーはカウン
セリングを受ける人の抱えている課題の当事者にはならないし、なってはいけないのです。当
事者になるとカウンセリングはできません。牧会においては、牧師は牧会を受ける人の抱えて
いる課題の一方の当事者でなければなりません。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞
き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために
見張りをしているのです。」(ヘブル 13:17)親は子どもが成人するまでは、その子どものすべて
に関することの当事者であるように、牧師は終わることがなく、神の前に預けられた信徒の信
仰の当事者なのです。ですから、親が子どもに対して権威と義務を持っているのと同様に、牧
師は信徒に対して権威と義務を持っています。牧師の権威は神がその職に任命したことが出
発点ですが、その職務の遂行のなかにそれが確かなものとされます。先に話題に取り上げた
仙台聖泉キリスト教会の山本牧師が何かの機に、姪に当たるお子さんを叱ったら、まだ小さい
時でしたが、「あんたの子じゃないよ。」と言ったそうです。実に的を得たことばです。彼女は自
分の親には叱られることをよしとしていたのです。子どもを養育していくことの中に親としての権
威が生まれ、子どももそれを認めます。同様に牧師も信徒をその信仰の責任者として牧会す
ることの中に牧師としての権威が生まれることも確かです。全ての人が信仰の成功者となるわ
けではありませんから、牧師はその信仰の当事者として、うまくいかなかった人々の屍が累々
となることを経験することになります。「たれかこの任に堪ええんや。」とパウロが慨嘆したよう
に。

 神が導かれた結婚においては、夫に対し神はこの妻を愛してキリストが教会を潔めるように
妻を愛してこれを建て上げよと命じられます。妻には教会が頭であるキリストに従うように夫に
従いなさい、と命じられます。そこに神の主導による夫婦の関係が生まれます。これが教会の
関係です。しかし、この世の原理、自然のままの欲求の原理に従って夫婦になった場合には、
この世の関係の夫婦ができあがるのです。
 この世の関係の夫婦の間に生まれた子どもは、またこの世の関係の親子になります。教会
の関係の夫婦の間に生まれた子共は、教会の関係にある親子になります。ですから、結婚は
非常に大切なのです。「不信者に添うなかれ。」(コリントU 6:14、文語元訳)

 親子の関係は子どもがある年齢に達するまでは、親の主導のもとにありますから、親の信仰
の如何に一方的にかかわります。しかし子どもがある年齢に達すると、それは相互の関係に
なり、親も子も両方が神の前にどのようであるかによって、教会の関係が保たれるのです。
 H・C・ヒューレット(80)は、その著書「主の栄光」の"御子の地位に起因する神の啓示"という
項目の中でこう述べています。

 御子は…わたしたちに神を知らせるためにおいでになりました。わたしたちは、「父のふとこ
ろ」という表現が、金の鎖となって、他の四つのそれに類似したことばにつながってゆき、また
それがヨハネの福音書を特徴づけている思想に、いま一つ調和を与えるに至っていることを不
思議に思う必要があるでしょうか。まず第一に、親密、霊的交わり、そして愛情の場である"ふ
ところ"があります。次に、ご性格の表現である"御名"それから賢明にして聖なる聖旨につい
て語る"みこころ"、さらに、力と摂理の領域である"御手"、そして最後に、究極の休み場であ
る"家"があります。

 この一文は、教会の関係を現すことにおいて大変暗示に富んでいます。例えば夫婦の関係
に当てはめてみましょう。
 女の人は、結婚して
 ・夫のふところに入り 「汝の懐の妻」(申命記一三の六、文語訳)
         「…妻たちをあなたのふところに」(サムエルU一二の八)
 ・夫の名を名乗り
 ・夫のこころを行う(夫に従う)
 ・夫の手に守られる
 ・夫の家に住む
のです。また親子の関係に当てはめて見ましょう。
 子どもは親から生まれて親のところにおり、
 ・親のふところにいる
 ・親の名を名乗っている
 ・親のこころを行う(親に服従する)
 ・親の手に守られる
 ・親の家に住む
 この関係が保たれているとき、子どもは親子の関係である教会の関係にいますが、子どもが
親の意見は自分の行いたいことを規制するものであることが分かったときに、もしも次のように
行動したならば、
 ・自分の行動を隠す
 ・親に相談しない
 ・親のこころに反することを承知で自分のこころを行う
ならば、親子の関係は破れ、親のふところにはいられなくなり、親のこころを行わず、親の守り
の手が届かなくなり、そして家庭は彼の休み場ではなくなるのです。
彼は親子の間にある教会の関係から飛び出していってしまいます。

 また次のようなことにも留意しておかなければなりません。
 牧師は信徒の信仰に関わるすべてのことに対して指導する責任と義務があります。牧師は
信徒の信仰を神に対して弁明すべき人なのですから、生活のあり方のみならず、お金を得るこ
と使うこと蓄えることに、夫婦のあいだのこと、親子の間のこと、信者間のこと、勉学や趣味や
その他なんでも、もしそれが信仰に影響を及ばしてくる問題であるとき、それを指導することを
神から任せられています。牧師には大変な技量が求められていることが分かります。信徒の
生活にどこまで立ち入って指導するかは、牧師と信徒の間柄がどのように造られているかによ
ります。牧師と信徒との関係という観点から言って、牧会の指導の範囲に、プライバシーなどと
いうものはありません。なぜなら、キリスト教はプライバシーの本源とも言うべき"人格"そのも
のをとりあつかうのですから。
 しかし、牧会者と信者の間にプライバシーはないとしても、信者と他の信者との間にはプライ
バシーが守られなければいけません。ですから、信徒の指導をその観点に立って行うときの留
意事項の中の大切な一箇条は、その牧会によって知り得た個人の秘密を他に漏らさないこと
です。
 プライバシーと言う表現は、自己に対する権威の問題であって、誰にも見せない「私」の領域
を残しておくことを意味します。愛の交わりは、心の奥底まで見せるものです。しかし、誰に対し
てでも開けっぴろげというのではなく、それを見せる相手を選びます。
 複数の牧会者が一つの教会にいるとき、牧会者間では、個人の秘密を語り合う必要が生じ
ます。しかし、その信者の個人的な秘密を知っているのは牧会者だけの範囲にとどまらなけれ
ばなりません。もしそれが、牧会者または牧会に関わる人々から他の人に漏れたらその牧会
者は信用されるでしょうか。「あの信者は、こういう課題があるから、祈って上げて下さい。」と
一般の信者に依頼してはいけません。『あなただけに話すのよ。』ということばは、世人が誰か
の秘密がぱっと広まる例としてあげるものです。
 ただし何事にも例外はあります。本当に口が堅く、祈りの器と認められる聖徒、祈りの賜を有
する聖徒がいるなら、そのひとに祈りを依頼することに反対するものではありません。
 長老も信徒の個人的秘密を知りうる場合が多々あります。それが本人又はその妻の口から
他の人に漏れたら、その信徒は指導を受けることを好まなくなるでしょう。
 聖徒の交わりとは、隣の信者のうわさ話をすることではありません。

 信者はしばしば自分の教会の牧師、あるいは他の教会の牧師のことを話題にします。おなじ
ことば「○○先生は、こうすればよいのに。」と信者の誰かがいったとしても、その心に"批判
(非難、責める思い、けなす思い)"がある場合と、"意見"がある場合があります。さらに、その
ことばを聞く第三の人が、その信者に対してあるいは牧師に対して、批判の心があると、その
ことばが批判に聞こえます。人は間違えやすいものです。牧師や他の兄弟姉妹たちのことば
や行動について、批判の心を持ってそれを見聞きすると誤って理解することが多いのです。

 潔めは人の言葉の背後にあるその人の心情を正しく判断ができる必要条件ですが、十分条
件ではありません。つまり、潔められていても間違うことがあります。それを間違えると、交わり
と一致に多大の損害を与えます。もし誰かについて語ることがあっても、その人に対する愛が
先にあるなら、誤ることは少なくなります。自分の心を見守り、愛が先にあるか問うことをすべ
きです。その愛を持っていることは神の子の資格であり、予言者の資格であり、王の資格であ
り、祭司の資格であり、主の牧場の羊の資格であり、主の働き人の同労者の資格であり、主
の家族の資格であり、肉親の資格です。
 「私はその愛をもっているだろうか?」これが自らへの重要な問いかけです。
 繰り返しになりますが、もう一度整理して述べます。
 教会の関係とは、「神がこの人を通して私に働きかけなさる」ことか、「神が私を通して、この
人に働きかけなさること」あるいは、「神が私たちの間において働きなさる」ことです。そこに神
が働かれるのですから、神の働く通り道になる人には、神の権威があります。ですから、これを
退ける人は、神を拒むことになります。「何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天において
もつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイ 
16:19)


7.3 教会の関係の中でなにが造られるか…聖潔に生きることのできる素地

 「分かる」ことが「できる」ことであると錯覚する人が多くいます。愛とは何とすばらしいものだ
ろう、と分かったとします。すると自分が愛を持っているかのごとく思うのです。実際は分かった
だけで喜んでいるのです。
 謙遜であること、忍耐深いこと、寛容であること、愛することは何かのスポーツが出来るよう
になることよりも難しいのです。スキーに乗ったことのない人が、スキーの本を読んでスキーの
乗り方が分かったからといってスキーに乗れるでしょうか。子どもの時、スキーに乗ることを練
習します。転んでは起きあがり、転んでは起きあがり何回転ぶでしょうか。そのうちにすいすい
とスキーに乗れるようになります。おとなはこの転ぶことに耐えられないのです。ですから幼少
の頃、少年の頃、少しでも若いうちに訓練を受けることが必要なのです。少し乗れるようになっ
てから解説書を読むと、解説書に書いてあるとおりに乗ることができ、その説明が生きて働く
のです。信仰の世界も同様です。少しでも若いうちに信仰の訓練を受けなければなりません。
 かつてスーダラ節という歌が流行りました。その一節に「…わかっちゃいるけどやめられない
…」とあります。実に人間の妙をついていることばです。人が聖潔に生きることは、
"分かっただけ"ではできないのです。

 信仰は、またことばに似ています。救われていない人は、神のことばの外国人です。外国語
を少し勉強したからと言って、そのことばを話せるでしょうか。信仰とは、神のことばを話し、神
のことばで生きることです。親たちが「アシュドデ語」(ネヘミヤ一三の二三)を話せば、子どもた
ちもアシュドデ語を話します。親たちが神のことばを話せば、子どもたちも神のことばを話しま
す。不信者の世界に育ったけれども救いに与った親たちは努力してなれない外国語としての
神のことばを話すのですが、救われたその親たちに育てられた子ども達は自国語(ネイティブ
タング)として神のことばを用い、神のことばに生きます。そのようにして代を重ねることが大切
なのです。そこに「信仰の継承」の意味合いがあります。子どもも個人的に救いと潔めに与らな
ければならないことは勿論ですが、それに与ること自体、不信者を親に持つ人々よりはるかに
容易なのです。

 親がやって見せたことを子どもがするのは世の常です。ヨハネの手紙第三において、「あな
たは旅人をもてなした」といわれたガイオという人に関することですが、コリントの教会にガイオ
と言う人がおり、パウロをもてなしました。その子がまたガイオと名乗り、旅人をもてなす人とな
ったのでヨハネがほめた、と言えないでしょうか。これは想像に過ぎませんが、筋のとおった連
想であると思います。このガイオという人物がだれであるかについて、アダム・クラーク(81)
かなりの長文をもって考察をしているにもかかわらず結論は不明でありますが。

 「幼少のうちに子どもの意志を服従させなければならない。」という見解に立って、スザンナ・
ウェスレー(82)は自分の子どもたちを教育し、1732年にジョン・ウェスレーにその見解を書き
送りました。以下にその一段落を引用しておきます。

 子供たちの心を形成するために、まず為されなければならぬことは、わがままを征服して、
従順な気性の子供にすることです。知識をさづけるには時間を要するのですから、子供たちの
力に応じておもむろに進めて行かねばならないのだけれども、わがままを征服することは早速
なされなければならぬ事であって、これは早いほどよいのです。時期を外さずに矯正しなけれ
ば、強情で片意地な子供となって、なかなか征服されなくなるでしょうし、これを征服するには、
私が子供に対してしたようなきびしい骨折りが必要となるのです。世間を見わたしますと、後に
なったら破らねばならぬことがはっきり分かりきっている悪いくせに、子供が陥ることを平気で
いる人々(これを私は、非道の親といいます)を、親切で太っ腹の親だと、考えています。そうで
す、ある人は馬鹿げた好みをもって、遊戯のようなつもりでその子供たちに教えてやらせ、暫く
たつと、子供たちがそれをやったからといって、たたくのです。子供は、矯正されれば何時でも
服従するはずです。これは放任し過ぎて頑固にならぬうちならば、大してむずかしいことではあ
りません。子供のわがままがすっかり征服され、両親の威光を敬い恐れるようになれば、子供
らしい幾多の大きな愚行と不注意とがあってもそれは不問に附してよいのです。ある子供は、
見のがされて何の注意もうけず、ある子供はおだやかに叱られる、ということになるのですが、
わざと犯した罪でなければ、こらしめられずに、許されなければなりません。尤も、過ちの性質
と事情とについては、説明が必要なのです。
 私は、子供たちのわがままを早目に征服することを、主張するのです。これは宗教教育の只
一つの強力な、そして合理的な基礎だからです。これをしなければ、いくら教えても模範を示し
ても役に立たないけれども、これを徹底的にする時は、両親の理性と信仰とによって、支配す
ることができて、子供たちの悟性が成長し、宗教の原理が心に根ざすようになるのです。
 私は、次の問題を書き落とすわけにはゆきません。わがままは凡ての罪と悲惨との根源です
から、もしこれを子供たちの心に育てるならば、彼らの後日の不幸と無宗教とを招くに至ること
は確実であり、もしこれを抑圧し制御するならば、彼らの将来の幸福と敬虔とを増進させること
は請け合いです。もし私たちが、宗教とは己が心をなすことでなく、神意をなすことであるという
事を深く考えるならば、以上のことはより明瞭となります。現世と永遠との幸福にとっての大障
害はわがままなのですから、これを放任しないということはつまらぬ事ではなく、わがままを否
定するということは無益な事でもありません。天国も陰府も、ただこの事できまるのです。子供
の中のわがままを征服することを学ぶ親は、一つの魂を更新させ、これを救うことで、神ととも
に働く人なのです。これを放任する親は、悪魔のわざに従事して、宗教を実行させなくし、救い
を得られなくし、こうして彼の中で働く凡てのことが、子供の心身を永遠の地獄におとしてしまう
人なのです。

 これは現在においても大変重要なことであって、もしそれができていないと、前節のスキーの
例で言えば、転ぶことに耐えられない子どもができるのです。「おとなになれば分かって自分で
出来るようになるから、それまで待て。」という教育論をぶつ人々がいますが、その声に聴き従
ったならきっと失敗します。嬰児と呼ばれる年齢が人格形成におけるもっとも大切な時期なの
です。夫婦がともにキリスト者であり、夫婦が一致して子どもを養育することに当たらなけれ
ば、これを果たすことができません。その意味においても、キリスト者青年男女が配偶者を求
めるときが、教会にとってきわめて大切なときです。

 「神の愛が私たちの心に注がれて」(ローマ 5:5)神の愛が私たち自身の品性となるために
は、注がれた神の愛を受け止め、それを定着させることのできる人格形成がなされていなけれ
ばなりません。種である神のことばは「人の心に播かれ」(マタイ 13:19)るのですから、心の如
何が問われます。人格形成が損なわれていれば、救いも定着しません。さもないと、花火がほ
んの僅かの時間で終わってしまい後はもとの夜空に戻るように、救いもほんの一時の経験で
終わってしまい元通りの人間に戻ってしまいます。

 一方、すべての人が福音に接する前の人格形成で、決定づけられてしまうのかというと、そう
ではありません。神経験はそれ自体が、善き人格の形成をさせるものですから、過去の人格
形成がどのようなものであっても、心がけて神経験に生き続けるならば、百倍の実を結ぶも
の、善かつ忠なる僕よと神に喜んで頂ける者となり得ます。ただ、神の前に真摯な信仰を送っ
た親に育てられた人々と、この世の原理に従って歩んだ親たちに育てられた人々では、信仰
の出発点で既に大きな差があるということです。子供の側から云えば不公平とも見えるその事
実には、親達の信仰の報いという観点から云えば、そこにこそ神の公平があります。
 牧師がジェファーソンの牧会と説教者(83)を読んで、"すばらしい、是非このような教会建設
をしよう。"と思ったとして、すぐにそのようにできるでしょうか。営々と努力して、自らの力量を
向上させなかったなら、できるはずがないのです。

 日本のキリスト者達が品切れになっている本の中で、どの本を入手したいと思っているの
か、いのちのことば社が広く増刷希望のアンケートをとったら、W.フィリップ.ケラーの「羊飼
いが見た詩篇二十三篇」(84)が、最も希望が多かったと聞きました。この本が推奨できる良い
本であることは間違いありませんが、この本を読んだ人が皆、ただちに羊飼いによく従う羊に
なるのではありません。勿論、読んだ人の方が、読まない人よりも良く歩むであろうことは疑う
余地がありません。しかし、この本を読んでも、危険な柵の外に出ていく人も多いにちがいあり
ません。なぜなら、本を読むことには、教会の関係にある人格の交流、戦いといったものがな
いからです。それは知識に働くものです。

 人が何かに上達しようとするとき、その事に熟練している人に誤りを直してもらうことが必要
です。外国語を習うときでも、スポーツでも、書道や花やお茶あるいはピアノなどの楽器の演奏
などの習い事でも、絵や陶芸、彫刻などの芸術のことでも、会社の仕事でも、指導してくれる人
である先生や上司などに叱られながらでもそれを続けていると、技量が向上し熟練していくこと
が多くあります。
 信仰の世界もまた然りであって、教会という場で訓練されない信者は、自分ではいっぱしなも
のだと思っているかも知れませんが、きっと我が儘な信者になっているにちがいありません。
 そこに教会の関係から造りだされるものがあります。「人がひとりでいるのは良くない。」(創
世記 2:18)のです。


 教会の関係の中で何が造られるのか、という点についてもう少し考察してみましょう。ただし、
それは非常に多岐に渡りますから、その実例を二、三挙げておくのみにします。

 これは私自身に関する例ですが、私は救いの恵みに与ったとき、私の信仰内容が一足飛び
にすばらしいものになったというのではないのに、すぐに、長い時間、二時間でも半日でも、神
の前に坐って祈ることができました。周囲の人を観察してみると、ほとんどの方々はそれが出
来ないらしいと感じます。ですからどうして、祈りを長くすることができるのだろうか。と考えたと
き思い当たることがあります。私が4歳から7歳くらいの頃、頻繁に近所のキリスト者達が集ま
って私の家で家庭集会が持たれました。私たち子どももみな一緒に坐っていました。十人、十
五人と集まったおとな達が順番に全員お祈りをするのです。そのお祈りの長いこと。しばしば
二時間も目をつむっておとな達のお祈りを聞いていました。今になって、その益に与っているわ
けです。数時間神の前に坐るものだけが、五分しか祈らない人の知らない、神のご臨在の楽し
さに与るのです。
 同じ頃、私の家では家族が集まって讃美するときが頻繁にありました。その讃美歌は私の中
にしみこんでいるという感じで、今に至るまで鼻歌にさえも出てくるのは讃美歌です。
 教会の集会に子ども達が静かに坐っていることも、やがて子ども達の信仰生活の中に大き
な効果をもたらすものです。
 子ども達が教会の中においてよい交わりの場が与えられているなら、教会を愛する気風を持
つにいたります。
 教会の関係の中で造られるもの、その中心は「神を畏れる」ことです。それは教会を愛するこ
とにつながり、集会を慕うことにつながり、聴くことのできる人間になることにつながり、聖書の
ことばに従うことにつながります。何か困難に遭遇したとき神を思うことができるか否かは、神
を畏れるということが、魂のうちに形成されているか否かに関わっています。罪を犯したとき、
神の刑罰を恐れることもそこにあります。


7.4 その方法…人格の交流

 牧師が信徒の中に、夫が妻の中に、親が子どもの中に、どのようにして神を畏れる気風を造
ることができるのでしょうか。
 信じて「方法」を行う、それが鍵です。方法を行う事自体が信仰です。「アブラハムは、その子
イサクを祭壇にささげた」(ヤコブ 2:21)ことが彼の信仰でした。

 信じて、方法を行うという事の内容を考察します。
 緒論において述べたように、メゾジストということばは「几帳面派」と言わず、「方法論者」とい
うべきでした。几帳面ということばは、メソジズムの本質を見失わせるものです。ここにいう「方
法論とは、恩寵の手段(84)論の拡張です。」というと理解しやすいかも知れません。では「方法
論」とはどういうことか、例をあげて説明します。

 私は救いの恵みに与る直前のこと、礼拝説教で「あなたがたは、神に近づく道か、神から遠
ざかる道か、いずれか一方しか選ぶことが出来ません。中間はないのです。」と語られたことを
聞き、私も神に近づく道を行きたい、と思いました。そこで考えて、自分ができる神に近づく道
を歩もうと思いました。そして、神に近づく道は教会の集会に出席することであると思いました。
それから三十八年経つ今に至るまでそれを実行していますが、集会出席を確保するために
は、工夫と戦いが必要でした。教会の集会に出席するために実行することは、「教会の近くに
住む」ことが一番です。ですから、前にも述べたように、結婚したとき自分の収入にみあった家
賃で、教会の近くに住もうとしたら、六畳一間になってしまいました。今にして思えば、よくそこ
に来てくれる人がいたものだ、ということにもなりますが、その時は、結婚の相手に有無を言わ
さず実行していました。その後、交通手段である自動車を確保してから、郊外のアパートに引
っ越しました。
 方法論とは、信仰生活のなかに起きてくる様々のことがらに、このように対処することです。

 東京の荒川聖泉キリスト教会の故山本岩次郎牧師が、ある教会の役員研修会に講師として
招かれて話した中に、次のような内容のことがあります。
 「私は私の教会の信者どうしが、直接金の貸し借りをする事をさせません。なぜならば、お金
を借りた人の立場は下になり、お金を貸した人の立場は上になります。ですから金の貸し借り
を許しておくと、教会の信者の中に上下関係ができてしまいます。こちらの信者は偉く、あちら
の信者はそのひとにぺこぺこ頭をさげる、そんなことがキリストの体である教会の中に起きて
よいでしょうか。それはあってはならないことです。ですから、ある信者がお金に余裕があり、
別な信者がお金に困窮しているという事態が起きてきたら、牧師である私が余裕のある信者
にお金を融通して貰い、融通した信者はそれが何に使われるか知らず、困窮している信者が
そのお金がどこから出てきたか分からないままに使えるようにします。」
 ここに牧師の牧会上の工夫の一例があります。確かにそれによって、富んでいる信者が教
会の中で問題を起こさずに兄弟への愛を行うことができます。

 スザンナ・ウェスレーは子ども意志を服従させるために、子どもを打ちなさいといいます。子ど
もを育てるとき、親がある規制を定め、それに反したとき子どもを打つという工夫が必要です。
それによって子どもは服従を身につけ、子どもの中にまっすぐな人格が形成されるにいたりま
す。「アメとムチ」なとど言うことではありません。許されていることは子どもの望みをできるだけ
かなえることによって愛を現しますが、許されないことには、愛して子を打つのです。仙台聖泉
キリスト教会の山本嘉納牧師の話されたことに、こういうことがあります。「守(子供さんの名)
がお尻をぶたなければならないことをしたとき、本人は何とかお尻を私にぶたれないで済むよ
うにと、『ぶたないでくれ。』と頼みますが、悪いことをしたときには、お尻をぶたれなければなら
ないのだ。お父さんは、もしもお前が悪いことをしたとき、お前をぶたないとお前のお父さんで
いられなくなるのだ。だから、もしお尻をぶたれたくないなら、お父さんの家にいないでよそにい
きなさい。と言います。すると、守は、お父さんの家に居たいから、と自分でお尻を出して打た
れる…」と。実際にお尻を打つのですが、お尻をぶたれてもお父さんの家にいたい、お父さんと
いたいという子供さんの心に、お父さんとして深い感動と愛を子供さんに対して持つことがうか
がわれました。

 もしも成人に達した子供が、どうしても敬虔に相応しい生き方に従わない場合、「もしいくたび
も試みてもなお彼等が論議や勧告に従わないことがわかったならば、形式を離れて、彼らをあ
なたの家から去らせることが、あなたの責任である。」とのウェスレーの説教(85)に従わなけ
ればなりません。

 仙台聖泉キリスト教会において、会堂を建て直すとき、礼拝中に子どもがいる部屋を備えた
方がよいか議論されました。結論としてそれはやめることになりました。赤ちゃんも子どもたち
も、教会の集会に一緒に出席し、静かに集会をともに過ごすこと、それを実行させることにしま
した。それは、特に母親を中心とする親たちに、その子どもが小さいとき、その子を静かにさせ
る戦いをもたらします。集会中に騒ぐ子どもは親が打たなければなりません。それは、現在も
続けられていますし、この教会の親たちにも子どもたちにも大変有益であるように見受けられ
ます。
 ある教会に出席する機会がありましたが、その教会では、なんと礼拝中に子供たちが会堂の
屋外で遊んでいるではありませんか。そして、祝祷のときだけ中に入ってきて前列の席に並び
ました。そんな礼拝をしていて、子どもたちの中に神を畏れる気風を造れるでしょうか。


7.5 教会と結実

 第5章、救いの経綸において、人間が救われ、潔められて達成しなければならないことは、
結実であることを述べました。
 聖潔の問題における教会の重要性はそれが、「結実の場」であるからです。進歩のある聖潔
は教会における歩みなしにはあり得ません。「アブラハムがイサクを祭壇にささげ」(ヤコブ 2:
21)たとき、アブラハムはその信仰が実現した、と認められたように、聖潔は、実際の生活の中
に神の潔さを行いによって現したとき、「あなたの潔さ」が実現したとされます。

 その場は教会の関係にある人との間にのみあります。前にも述べていますが、何か困ったこ
とがある兄弟がいたとしても、神の導き無しにその兄弟に何かをしようとしてはいけないので
す。
 救いの経綸の章において、実とは「品性」ではなく「行い」であることを述べました。これは、聖
霊の実を結ぶ上において、大切なことなのです。
 聖潔は「聖霊の満たし」の他に、人間の内に以下の3つのことをもたらすものです。

   @聖絶、汚れの除去(純潔化)
   A献納(神の所有となること)
   B神の聖の付与(神の性質、義、愛が潔められた人の品性として分与される)
 これらは救いの恵みと同様に、"十字架の贖いによって"信じた者に"行いなしに"与えられる
ものです。
「聖潔」は、「救い」と同様に、信仰によって行いなしに与えられます。
「品性」は、この神の「聖」の一部として、聖潔の経験と共に与えられるのです。
結実は、私たちに"行いなしに"与えられるものではなく、私たちがどのように"行う"かの問題
です。善い実を結ぶとさらに豊に善い品性が与えられます。(マタイ 25:28〜29、ヨハネ 15:2)

 "愛する"、"忍耐する"、といったことを行うことが結実です。これらを行うには、「愛を要する
相手」、「事態」、と「その事態に対処せよとの"神からの任命"」が必要であって、その相手が
教会の関係にある人です。

 私たちが当面する事態は、個別の問題になりますが、教会の中に取り組むべき使命が置か
れています。私たちがその使命に取り組むとき、教会が建て上げられるのです。

 私たちが信仰によって生きていこうとするとき、事を進めていかなければならない事態、ある
いは困難と感じる様々の事態に当面しますが、それらの事態をどのようなものと考えるかは、
信仰生活をしていく上において大切です。そして、信仰の原理でことに当たらなければなりませ
ん。キリストを信じているし、教会にも来ている、しかし生活を行っている根本にあるものはこの
世の人と同じ、という人もいますし、あるときには信仰の原理でまたあるときには世の原理でこ
とに当たる揺れ動く人もいます。

 信仰によって歩んでもなお、神は私たちの歩みの中に課題を置かれます。課題は神が私た
ちの結実のために備えられた場ですから神の助けを得て私たちはそこで善き実を結ぶことを
考えなければなりません。

 善き実を結ぶと更に多くの愛、よい品性を与えられます。前にも述べたようにそれが成長で
す。使命を与えられてそれに取り組むと、そこにまた信仰の課題が出てきます。それはその使
命に与らなかった人には与えられないものであって、さらに多くの聖霊の実を結ばせて頂くに
至るものです。信仰の課題は私たちに真剣な祈りをもたらします。それで、私たちは信仰によ
って生きることができるのです。
 私たちは摂理によって歩む道筋の中に、ひとりひとり個別の課題、使命が与えられます。そ
れぞれが、その自分の使命を果たす中に潔めが保たれ、潔めに進むことができます。
 その使命に生きることが「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」(コロサイ 1:24)ことであ
り、それに身を捧げる者があるとき、「聖く傷のないものとなった栄光の教会」(エペソ 5:27)が
建て上げられるのです。




8.結語に進む



戻る
戻る