「同労者」第3号(1999年12月)   聖書の植物に進む  目次に戻る  聖書研究に戻る

聖書講義

− 昨日のサムエル記(その3)−

仙台教会 山本 嘉納

 聞いた話によるとアメリカの軍需産業は、その時代の自国の経済を支えてきたものらしい。
ジェット戦闘機は、一機数億から数十億円するそうで、日本はお得意さんである。彼らは、数十
年前に戦争した国に基地をおき戦闘機を売って世界平和を維持している。日本は絶対に歯向
かわないと思っているのであろうか。調べてみると彼らは自分たちの造った戦闘機と戦うことは
ちゃんと想定しているようで最新の技術は自分のところに残しておいて分け与えても影響のな
いものは売って、お金に換えているのである。だから軍縮だの世界平和だの言ってもたどり着
くまでに、越えなければならないハードルは限りなくある。なぜ、こんな話から始めたかと言う
と、"サムエル記がなぜ、サムエル記か。"の話をする前準備である。
 普通、本の名前は当然書かれている内容を映し出すものでなければならない。アメリカで説
教学を勉強した時、説教のタイトルがそうでなければならないと教わった。それだけではなくそ
れを見て聞きたくなるようなものでなければならないとも教わった。私が育った教会では、一年
の半分以上が「信仰の勝利」と付けられた変わりないタイトルでメッセージが毎週行われてい
た。
 気が付くと私も同じタイトルで一年間やっている。本のタイトルの話である。別に内容を映し出
すだけがタイトルではない。作者名がそのまま本のタイトルになるのが聖書である(勿論例外も
ある)。しかし、サムエル記T、Uを読んでその内容はサムエル自身についてもそうであるがほ
とんどが彼の死後のお話である。彼は偉大な預言者だったがサムエル記を全部書いたとは考
えられない。ではなぜ多くの内容がイスラエルの初代の王、サウルやその次のダビデについて
書かれているのだから「サウル、ダビデ王記」とならなかったのだろうか。サウル王は、あまり
成績の良くない王だったので名前を省き、差し詰め「ダビデ王記」などという名が本当はぴった
りである。この話の結論は後回しにしてサムエルの肩書きに話を進めたいと思う。彼は、何者
だったのだろうか。預言者なのか、祭司なのか、(祭司エリの後釜)はたまた士師なのか。その
実態は・・・。彼の大切な使命、神にゆだねられた大切な仕事は何だったかを考えると正体が
わかる。聖書に何と書かれているだろうか。「そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマ
のサムエルのところに来て、彼に言った。『今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たち
は、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立
ててください。』」(サムエルT8:4〜5) 彼の正体は、聖書によると「裁き司」である。大切なのは王
ではないことである。それまでイスラエルには士師として民を束ねる指導者はいたが確かに王
ではなかった。続いて書いてある「主はサムエルに仰せられた。『この民があなたに言うとおり
に、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを
退けたのであるから。』」(サムエルT8:7) を読めば、神が王などもってのほかであるかのように
言っている事がわかる。神ご自身がイスラエルの王としてこの国を治めていたのである。
 私達の信仰生活は、いかにこの世にあって生きながら神を信じていることをその生活の中に
反映できるかが鍵となっている。しかし、多くの場合、それに関わりなく生きている者達と何ら
変わらない自らに出会う。祈りもするし教会にも出掛けるし、献金もする。これらは当然の義務
のようになっていてそれ自体が私達を生き生きと信仰生活に生かすものではなくなっている。
であるから大きな試みに遭遇してもどの部分で神を信じていけばよいのかがわからない。イス
ラエルの民がこの時、王を求めたのは彼らが大いなる試みの中に遭った時である。よく聞かれ
る周りの友達がみんな持っているから自分もほしいというようなレベルの話ではない。彼らイス
ラエルの大敵ペリシテは、鉄を持った文明の進んだ国だったのである。今のアメリカと日本の
ように武器としての剣(戦闘機)は持っているが青銅と鉄では強度が全然違う。アッと言う間にこ
ちらは刃こぼれしてしまう。それだけなら何とか勇気を振り絞り神の助けを借りて立ち向かう気
にもなるが、敵ペリシテには武装した戦車(馬に牽かせた2輪の馬車)も数多くあり軍隊組織も
職業軍人を持ち訓練と演習をきちんと行っていた。どう考えても分が悪いのである。イスラエル
がサムエル記Tの4章1節に「サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエル
はペリシテ人を迎え撃つために戦いに出て、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。ペリシテ人
はアフェクに陣を敷いた。」とありこの戦争で大敗したことがそれに続く2節に「イスラエルはペリ
シテ人に打ち負かされ、約四千人が野の陣地で打たれた。」と書かれている。彼らの対策は、
主の契約の箱を陣に持ってくることだった。神が共に戦ってくださり守ってくださると考えたので
ある。しかし、結果は変わりなくイスラエルは敗走し、おのおの自分たちの天幕に逃げたので
ある。この後、長老といわれる各部族の代表は集まりこの戦いの大敗の原因を探ったに違い
ない。あるものは、主に対する罪を指摘するものもあっただろう。またあるものは、ペリシテの
文明の高さと組織立った戦いに歯が立たなかったことを述べたものもおったに違いない。指導
者エリを失ったイスラエルの最高議会(臨時の集まりに過ぎなかったであろう)は、結論としてイ
スラエルを束ねて軍事的にペリシテに対抗できるようになるための対策が必要であるとの決定
を下した。事実上の裁き司となっていたサムエルも同席していたがおこりそうになる王制には
断固反対の立場をとり、なぜ反対かの意見を述べた。神の人の意見は尊重しなくてはならな
い。先の戦争で契約の箱はペリシテの地に移されてしまった。この上、神の人を退けたらイス
ラエルを助けてくださる神を完全に失ってしまう。イスラエルがサムエルに従うと不思議なように
ペリシテから契約の箱は牛に引かれ返ってくるし、ペリシテが攻めてきても「サムエルが全焼の
いけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主はその
日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人
に打ち負かされた。」(サムエルT7:10)
 感激の大勝利であるが、信じていればいいのだろうか。現実を考えればイスラエルの民は鉄
を持ったペリシテ人と今後も戦っていかなくてはいけない。私達の生活も現実、戦うのは自らで
あるし、強い敵は手を変え品を変え攻めて来る。この人が祈った時に神の不思議な助けが必
ず与えられると信ずる神の人は、自らの為に立ち続けてくれるだろうか。イスラエルは、神が王
制を許してくださることを求めた。それほどに戦いは熾烈を極めた。サムエルも本望ではなか
ったがその準備を着々と進めなければならなかった。信仰を生きぬくことは簡単ではない。まし
て反映させることは至難の業である。サムエル記は彼が神と共にイスラエルに与えた王制の
正しいあり様を記しているのである。彼の後継者達が、イスラエルにふさわしい王制が営まれ
ているかをチェックしている。モーセがイスラエルに律法を与えて建国を成就したようにサムエ
ルは神の命に従ってイスラエル王国を樹立した人である。最初の王、彼はどんな人物だったの
だろうか。この続きは次回にまた。






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