「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民は空しく呟くのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相とも に集まり、主と主に油そそがれた者とに逆らう。『さあ彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を解き 捨てよう。』天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。ここに主は 怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らをおののかせる。」(詩篇2:1〜5)
電話ではテレビのように言葉を映し出すことは出来ませんし、また馴染みの薄い聖書の言葉
を一度耳にした程度では仲々理解するのが困難と思います。
唯今の言葉を、かいつまんで申し上げますと、「人々は神に逆らい、神の戒めを無視して自
分中心の道を突き進んでいる。然し生きておられる神は、その様な人間の計画を打ち砕き、あ ざ笑い、燃える怒りをもって逆らう者を戦慄の闇に投げ込まれる。」と言うのです。
一見、愛の神に応しくない表現ですが、聖書は詩的表現や擬人法をもって神に逆らう者の末
路を示しているのです。
世の中にも「天に向かって唾する。」とか「蒔いた種子は刈り取る。」とか、いわゆる因果応報
的の戒めがあります。
聖書の神は、真理に逆らう者の行きつく所は恥と悩み、戦慄と後悔の泥沼であると警告して
おります。罪と欲がいかに大きな代償を払うものであるか、毎日のニュースは飽きる程、その 事実を報道しております。諺に、"始めの一杯は人、酒を飲み、二杯目は酒、酒を飲み、三杯 目は酒、人を飲む。"とありますが、始めは自分が主人公で罪を楽しんでいた者が最後は罪の 主人公の前に奴隷とされてしまうのです。
聖書は言います。「天の御座についておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。こ
こに主は怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。」と。
神は意地悪く罪ある人を滅びに投げ込み、冷ややかに嘲笑しておられるのでなく、生命と
死、祝福と呪詛の世界と預じめ警告し、人間が生命と祝福の道にを選ぶよう勧めておられるの です。それを無視して自ら罪の道を突っ走る人は自ら火の中に飛び込むことになります。その 悲惨な姿を「神は嘲り、怒る」と言う詩的表現で伝えているのです。 |