同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

仙台聖泉キリスト教会 聖書研究会 1997.4.22 から

ローマ人への手紙(第5回)

野澤 睦雄

「あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」
(ローマ6:19)

 はじめに、前回までの学びを要約します。
「救いの教理の解説」に関する学びを続けています。項目だけもう一度記載しておきます。

 

(1)人間の罪について
・異邦人の罪(ローマ1:18~32)…律法を持たない人の罪
・ユダヤ人の罪(ローマ2:1~3:8)…律法を持っている人の罪
・罪に関する記述の結論(ローマ3:9~19)…律法が示されることによって、罪が明らかになり、行いによるのではない救いの必要性が明確にされた。
(2)信仰による義について
・信仰による義…その定義「イエス・キリストの贖いによる義」(3:21~26)
・   〃  …それを受ける道は「信仰」(3:27~4:25)
・   〃  …それを受けた者の神との関係は「愛」(5:1~11)
・   〃  …それを受けた者に与えられる新しい「命」(5:12~21)
 パウロは、論を次のように展開していきます。
 『私は"福音"の使者とされました。私は福音を恥だなどとは思いません。それはユダヤ人にもギリシャ人にもすべてこれを信じる者に救いを得させる神の力であるから(1:1、16)です。なぜなら、福音のうちには"神の義"が啓示されていて、その義は信仰にはじまり、信仰に進ませるから(1:17)です。
 なぜ"信仰"なのか?あなたがたの実態を見てご覧なさい。異邦人の姿は、ここ(1:18~22)に示すとおり"彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され(助けることをやめて放置され)た"ため、あらゆる悪を行っています。
 一方、ユダヤ人と言えば、ここ(2:1~3:8)に示すとおり、私たちは律法を持っているぞと言いつつ、神を侮る(2:23)ではありませんか。つまり、人は行いによっては義とされ得ないのです。
 しかし、なぜユダヤ人に律法が委ねられたのですか?それは、"すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するため(3:19)"です。
 そこで今は、律法と予言者によって示されていた「神の義」が明らかにされました(3:21)。それはイエス・キリストによる贖いのゆえに、価なしに与えられる神の義です(3:24)。アブラハムを見なさい。彼が義とされたのは、ただ(「天の星を数えて見よ。あなたの子孫はこのようになる。」と仰せられた)神のことばを信じただけではありませんか。
 アブラハムの義については"罪の赦し"であることが明らかにされていません。では、ダビデを見なさい。彼は「行い」によるのではなく"不法を赦され、罪をおおわれた人たちは幸いである(4:6~8)"と言います。すなわち、「義とされる」とは、「罪を赦される」ことなのです。
 アブラハムが義とされたのは割礼を受ける前のことではありませんか。アブラハムが割礼を受けたのは、既に義とされたことの証印として受けたのです(4:10~11)。その理由は、アブラハムは割礼のある者にも割礼の無い者にも、すべて彼の信仰に倣う者の父であるためでした(4:16)。
 アブラハムは自分の体とサラの胎が既に死んだものであることを認めましたが、死者を生かすことのできる神を信じて疑わず、約束のものを与えられました。それは死者の中から主イエスを甦らせた方を信じる私たちも、その信仰を義と認められるためです(4:18~19、23~24)。
「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(4:25)
 つまりイエス・キリストの贖いにより罪を赦され、信仰による神の義が与えられましたから、信仰によって義と認められた私たちは、神との平和を持っています。その結果、私たちは神の栄光を望んで喜び(5:2)、また艱難さえも喜び(5:3)ます。その理由は、艱難は私たちに訓練された品性というものを与えてくれるからです。そして、聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれます(5:5)。
 私たちが罪人であった時に既にキリストは私たちのために死んで下さって(5:8)、私たちに愛を示されたのですから、まして神との平和を与えられた今、神の怒りから救って下さるのは当然です。今、私たちは神を大いに喜んでいます(5:11)。
 アダムによって「死」が人類に入り込んだように、キリストによって、新しい「命」が私たちにもたらされたのです(5:12、18)。
 「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(5:20)』
(3)聖潔の教理に関する解説 (ローマ6:1~8:39)
 罪の増し加わるところには恵みも増し加わるのですから、恵みが増し加わるように罪の中にとどまって(罪を犯し続けて)よいのですのか?と、パウロの論は続きます。そして、"そうではない。罪を犯す者は罪の奴隷です(6:6、16、20)。私たちは罪から開放されて義の奴隷となったのですから、聖潔に進みなさい(6:18~19、22)。"と、彼は強調します。
 「義とされる」とは赦免であって、"義しい者と見なされる"ことが中心ですが、この段から、実質的な変革、すなわち潔く生きることが要求されています。
 聖潔の教理に関する解説の部分は以下の段落で構成されています。
・罪を犯し続けてもよいかとの議論(6:1~6:23)
・律法によって罪から解放されようとする者の課題の闡明(7:1~25)
・聖霊による罪からの解放(8:1~39)
 以下順次パウロの語るところを考察してみましょう。
  1. 罪を犯し続けてもよいかとの議論  (ローマ6:1~7:6)
     この部分を更に区切ってみると、以下の区分ができます。
    ・発題(6:1~2)
    ・バプテスマの意味の示す罪に生きていてはいけない理由(6:3~14)
    ・奴隷と主人との関係の示す罪に生きていてはいけない理由(6:15~23)
    1. 発題  (ロ-マ6:1~2)
       「題」はこれから論ずる内容を方向づけするものですが、前段の「罪の増し加わるところには、恵みも増し加わった、すなわち"万一また罪を犯してしまっても、すべての罪は赦されるのだ。"」との内容を受けて、パウロは次のように議論を展開しました。
       恵みが加わることはすばらしいことなのですから、「恵みが増し加わるため、罪の中にとどまるべきでしょうか。」(6:1)と、まず疑問形でことばを投げかけ、即座に自らそれを否定します。
      「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょうか。」(6:2)と。
       そして、2つの例を挙げてその理由を説明します。
    2. バプテスマの意味の示す罪に生きていてはいけない理由 (ローマ6:3~14)
       キリストにつくバプテスマを受けるとは、その死に与ることであって、古い体は死んでもはや罪には生きないこと、また、キリストと共に甦らされて新しい命に生きることを意味します。
       死んでしまった奴隷には、この世の主人の力は及びません。ですから死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
       キリストは、一度死んで甦り、二度と死ぬことはありません。そのようにあなたがたも、自分は罪に死んで、神に対して(義に)生きている者と思いなさい。――計算しなさい。信じなさい。
    3. 奴隷と主人との関係の示す罪に生きていてはいけない理由 (ローマ6:15~23)
       負ける者は勝つ者の奴隷となります。ある者は罪に負けて罪の奴隷となり死に至りますし、ある者は罪に勝ち義の奴隷となって命に至ります。
       あなた方は罪から解放されて義の奴隷となったのですから、その手足を義に献げて聖潔に進みなさい。聖潔に進んだ報いは永遠の命ですが、罪の報いは死であるのですから。
  2. 律法によって罪から解放されようとする者の課題の闡明 (ローマ7:1~25)
     律法によって罪から救われる、すなわち義とされることが無いことは、既にローマ人への手紙3章で論じられています。なぜもう一度これが登場するのでしょうか。それは、3章の議論は「義と認められる」段階の問題でしたが、7章では「潔く生きる」段階でも、律法によるか否かが問われるためです。私たちのうちに「原罪」とも「罪の性質」とも呼ばれるものがあって、それが「罪の原理」として働くことを、律法が明らかにする働きをします。
     パウロはまず、「私たちが肉にあったときは、律法によって数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。」(ローマ7:5)とし、律法によって罪の原理から解放されることは無いことを論じます。そして「古い文字によらず、新しい御霊によって」(7:6)その解放はもたらされることを述べます。
     この部分は、以下の区切りで構成されています。
    ・夫婦の結びつきと死との関係に示されている律法からの解放(7:1~6)
    ・律法の働きにより内なる罪の性質が明らかにされること(7:7~25)
    1. 夫婦の結びつきと死との関係に示されている律法からの解放 (ローマ7:1~6)
       夫婦に関する律法の規定が及ぶのは、双方が生きている間だけであって、一方が死ねば、残されたものはもはや夫婦として縛られることはありません。
       あなたがたは死んで、古い夫である律法から解放され、キリストに結ばれたのですから、神のために実を結ぶようになります。
       ここでも、「律法が廃絶された」と考えてはいけません。その議論は3章(ローマ3:31)で既に行われ、"律法は無効にされるのでなく確立されるのだ"と明言されています。ジョン・ウェスレーはこう説明しています。「律法が廃止された(すなわち禁止される事柄がないから何を行っても罪に
      ならない)と考えてはいけない。そうではなく、旧約の(モーセの)律法は、新約の(キリストの)律法に置き換えられたのだ。だから新約の時代に生きる者には、キリストの律法を守らないことが罪である。」
       パウロは、律法からの解放がどのようなものであるかを8章で解説しています。
    2. 律法の働きにより内なる罪の性質が明らかにされること (ローマ7:7~25)
       私たちが聖いものであることを阻害している課題は、私たちの内にある罪の性質です。パウロはここに、律法によって潔く生きようとすると、かえって罪の原理である自分の内にある罪の性質が働き、その内容が明らかにされることを述べています。
       彼は律法の働きを述べて、「いのちに導くはずのこの戒め(律法)が、かえって私を死に導くことが、わかりました。」(7:10)と言い、以下の理由を続けます。
       「…律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。」(7:5)だから「律法は罪なのでしょうか。」(7:7)そうではありません。「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものです。」(7:12)。
       「律法は霊的なもの」(7:14)なのに「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者で」(7:14)、私のうちには「罪が住みついている」(7:17、20)し、「私の肉のうちに善が住んでいない」(7:18)で「悪が宿っている」(7:21)のです。そのため、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。」(7:19)「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか?」(7:24)
       パウロ自身は、自らが悩みつつこれを書いたのではなく、十分にその解放の道を知っていました。律法により、聖潔に至る課題を明確にしているのであって、この段落の最後に、次に述べる解放への導入を記します。
       「ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(7:25)これが救われてはいますが、未だ聖潔に至らないキリスト者の姿なのです。
    3. 聖霊による罪からの解放 (ローマ8:1~39)
       パウロが語る解放の道筋は、以下のような彼の手紙の抜粋によって示されています。
       "しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。…私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。しかし今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。…こう言うわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ6:22、7:5~6、8:1~2)"
       ここに解放の道は"いのちの御霊"「聖霊」によるものであることが分かります。
      この段落では、聖霊について、以下の内容が述べられています。
      ・生命の霊(8:1~13)
      ・神の子、相続人とさせる霊(8:14~17)
      ・望みと慰めの霊(8:18~25)
      ・祈りの霊(8:26~27)
      ・勝利の霊(8:28~39)
       聖霊は私たちにキリストとともに生きることの出来る「いのち」となられます。聖霊はそれを通して、私たちを神の子であり、神の恵みの相続人とされます。聖霊は私たちにとって望みと慰めとなられます。それはやがて私たちの体も贖われる(天の体、霊の体に変えられる=栄化される)からです(8:23)。聖霊は私たちを祈りに導かれます。そしてすべてのことの中で「勝利」を与えてくださるのです。
<今回の学びの結び>
 信仰による義に与った者は、罪を犯し続けてはならないのです。神の前における立場の問題(罪が赦される。義と認められる。子とされる。)だけでなく実際に義に生きなければなりません。
 その理由は、キリストにつくバプテスマは罪の体が滅んで罪の奴隷ではなくなるためであるからです。もしも罪に負けると、またもとの罪の奴隷に逆戻りし、その結果死の報酬を得ることになります。
 私たちが、その手足を義に献げて生きるなら、聖潔に至ります。そのときいのちの御霊の原理は、私たちを罪と死の原理から解放して下さるのです。 神の御霊は、私たちの内なる罪を除き、神の子どもとし、祈りを助けて下さいます。 神は愛する子どもたちを、ご計画に従って歩ませ、圧倒的勝利者として下さるのです。
(仙台聖泉キリスト教会員)