我が家の長男の名前は「守」といい彼のおじいちゃんが第一テサロニケから命名してくれた。 長女の「咲」は家内がその誕生の前から女の子なら自分の母親の信仰を継承すると言う意味 で「森田咲子」からその名を付けた。次女の「更」は彼女のおばあちゃんがアブラハムの信仰 を影ながら支えた彼の妻「サラ」から命名してくれた。気が付くと三人の父親であるはずの私に は命名という特権が与えられなかった。しかし、実は長男誕生の時、その命名を父に依頼して いたがその名を与えられる前に私だったら「守」と言う名がいいと家内に話していた。図らずも 父が同じ名を付けたことに驚きと共に神の特別な関わりを感じた。名前というその人格に与え られる固有の象徴は確かにその人がそこにおり、その時代を生きたことを表している。聖書の 中にどれだけの名前が出てくるだろうか。数えたこともないし数えようとも思わないが確かにそ の人格は存在し与えられた生涯を生き抜いていった。無意味な名前は無くその人格が神によ ってどのように変えられたかを示している。ある集会で聖書を一回毎に一章、創世記から読み 学ぶことにした。どんな事があってもやりぬく決心をしたがその困難を始めて早々に知った。創 世記の5章には誰から誰が何歳の時に生まれ何年生きたかが書いてあるだけだった。確かに エノクとかノアという信仰者も登場するがそれにしてもエノクについては「エノクはメトシェラを生 んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十 五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」とだけ 書いてある。すばらしい事だが求道者に語るためには脚色をしなければならない。しかし、私 たち信仰者にとってその事実を知ることは意義がある。
前置きが長くなったが、前回からサムエル記に登場するイスラエルの初代の王サウルについ
て書いている。とかく脚色が多くなりすぎるきらいがあるが昨日あったニュースのような新鮮さと 身近な出来事として捕られるようにと願って書いている。
麦藁帽子、腰には手ぬぐい、肩にクワをかついだ体格のよい、美男子が牛を追ってこちらに向
かって歩いてくる。麦の穂が風にそよぎトンボがその穂に上手につかまり休憩している。そんな 田舎の道では無意識のうちに通りがかりの見知らぬ人にも声をかけてしまう。「こんぬちは。」 誤字ではない。そう発音するのである。通り過ぎてからあれ、今のはこないだイスラエルの王に 選出されたはずのサウルじゃないかと気が付くが、それに違和感を覚える人は誰もいなかっ た。そんな時、イスラエルの東隣の国、アモン人がヤベシュ・ギルアデに攻めてきた。一人の男 が血相を変えてサウルの家に入って来てそのことと敵が自分たちに負わせた過酷な和平条件 を告げた。その困難を聞いて女たちは泣き崩れるしかなかった。現状、ペリシテというイスラエ ルの西に隣接する国からちょくちょく侵略を受け、その困難にどう対処したらよいかで躍起にな っている時にそれを利用しての攻撃と到底飲むことのできない和平条約はサウルの穏やかな 心を貫いた。聖書は「神の霊がサウルの上に激しく下った。それで彼の怒りは激しく燃え上が った。」(サムエルT11:6)と書いてある。平和ボケしている日本人にはなかなか理解されないところ である。私たちは普通生まれた国で生活し働き、家庭を持ち、子を産み育て、時がきてその生 涯を閉じる。今はあまり聞かなくなったがついこの間までは、ある年寄りが自分の生まれた部 落を一歩もでたことが無いなどと言うことはよくあった話である。とかく島国で一民族、一ヶ国 語、似たもの同士であることはそれがあたりまえだと私たちは思ってしまうが決してそうではな い。アメリカという国も別な意味で特別だか、多くの人々が自らのルーツにあたる国語のなまり が混じった英語を話しながら、顔かたちやその色の違う人々と共存している。海の向こうの国 についての報道は恐ろしいものばかりだが、これだけ違った価値観やルーツを持つ人々が共 に生きられるのはキリスト教の果たしている大きな役割の一つである。神を信ずるゆえに愛せ るのである。そんな彼らではあるが一度、人種による差別などが起こると戦う姿勢を明らかに する。バカにされるとその怒りが激しく燃え上がるのである。そんな気概のようなものを持って いないと生き残れないことを人間の歴史は明らかにしている。
イスラエルの存亡に関わるこの一大事にサウルを立ち上がらせたのは、そんな隣国のバカに
した態度に対する激しい怒りなのである。彼の次の行動は素早かった。そして目的を遂行する ために用いられた手段も適切だった。あたかも、このような事態が起こることを想定していたよ うである。彼に特別な力と知恵を与えたのは神である。しかしそれは野放図に待っていれば与 えられるというものではない。自らが請け負わなければならない責任の大きさを痛切に感じつ つもそれが十分に果された時に与えられる祝福もまた困難に比例して大きいことを彼は知って いた。サウル自身にのみ与えられる祝福ではない。イスラエル全部にもたらされる祝福であ る。彼の祖国への愛と同国民に対する哀れみの心は、かくして彼をイスラエルの初代の王へと 導いていったのである。神ご自身もまたイスラエルに対して抱かれた愛の思いは同じであっ た。「野良仕事をしているイスラエルの王は今日で終わり」と神の霊は彼の心にそんな宣言を 与えた。牛を切り刻んで国中に送り、このままではイスラエルはこのようになり諸国の餌食にな ってしまうであろうと告げた。平和ボケではないが、求めること受けることだけを考えているわ がままで怠慢なイスラエルの目を開かせるにはなかなか有効な方法である。親になって痛切に 感じることは、子をしつけることの難しさである。自らのコピーであるから弱さや足らなさは自ら の生き写しであるし、正さなければならない所は自らも引き続き正していかなければならない 部分である。自分は適当にやってごまかしているのにそれを叱ることができるであろうか。まだ 子供が小さくて分からないうちはいいが、すぐに見抜かれてしまう。不誠実と言われる。では、 見て見ぬ振りをするしかない。最後にはお前の人生だからお前の好きにすればいいと捨て台 詞を残して退散するしかない。願わくば神の大いなる哀れみが豊かであること、イスラエルを特 別に愛し導いてくださった主がこの時代、教会と共にあってくださることを祈る。「あなたがその 翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ2:12) そして私たちの神が「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがっ て私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に 大きい」(詩篇103:10、11)ことを今日も信じ感謝する。サウルは失格者であったが最後まで祖 国イスラエルを愛し、その民のために戦い続けることを神の哀れみの中で許されたことに私は 大いなる希望を持つものである。 |