「同労者」第6号(2000年3月)   Q&Aルームへ進む  目次に戻る  巻頭言に戻る

論  説

 ― 主の御受難を信仰の原点として ―

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」(ヨハネ3:15)
「すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」(民数記21:8)


 イエスが人として世に来られたのは、人間を罪から救うためでした。その救いは、十字架の
死による贖いによってもたらされるのです。毎年、3月の終わりから4月のはじめにかけて、主
の受難と復活の記念の時を迎えます。本号では、主の御受難について考えましょう。
 聖書が明確に示していることの一つに、人はイエスによって救われないならば"滅びる"という
ことがあります。そして、まず知っておかなければならないことは、その"滅び"は、大変なもの
であって、イエスがどうしても救わなければならない、十字架の苦難を忍んででも救わなければ
ならないと考えられるほどのことであるという事実です。ですから、誰かがキリスト教を受け入
れないの見て、「自分の人生ですから、どれでも好きな宗教を信じればよいでしょう。」などと言
ってはいられないのです。
  血潮のいさおに  滅びの火より
  逃れし我が身は  歌わざらめや
主の贖いを値高く値ずもらせていただきましょう。
 「贖い」とは「罪の赦し」(エペソ1:7)です。イエス・キリストは私たちの贖いのために死なれまし
た。そして、贖いの準備は完了しました。ですから私たちはそれを受け取りさえすればよいので
す。
 けれども、それを受け取るためには、どなたかに導いていただかなければなりません。自分
ひとりで救いに与ったという人は希です。
 「…その(イエスの)血は、私たちの良心をきよめて」(ヘブル9:14)主の贖いは良心の潔めを
も、もたらすものであることが示されています。潔い良心に従って生きるとき、人は潔い生活を
します。
 贖いは罪の赦しだけでなく、罪性の潔めをもなして頂ける根拠なのです。その実現は、聖霊
がなして下さいます。「イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネT1:7)
 救いが与えられると、救いの確信を得ます。潔めを与えられると潔めの確信を得ます。「救い
の確証」「聖潔の確証」を与えられましょう。もしも、十字架のない説教、十字架のない讃美、十
字架のない信仰生活がキリストの名で営まれているとしたら、それは戦慄すべきことではあり
ませんか。
 私たちは自分でもキリスト教に生きようと思っていますし、周囲の人々からもあの人はクリス
チャンで"特異な人"と見られます。ですから私たちは、是非ともそのキリスト教の成功者であら
せて頂きたいものです。その鍵は、「救い」がどれくらい自らのものとなっているかにかかってい
ます。


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