「同労者」第7号(2000年4月)        信仰良書に進む  目次に戻る  論説に戻る

Q&Aルーム

 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。
質問の送付先は
             仙台聖泉キリスト教会 山本嘉納牧師まで
                   TEL:022-266-8773
                   FAX:022-266-8773(TELと同じ)
                         E-mail 

 前月の質問に対して皆さんお考え頂けましたでしょうか。今回も回答例を載せてみますので、
自分の答えと比較してみてください。 

 前号の質問に対する回答
1.「義認」とは何ですか?
(回答)
 義認とは、"神が、罪を犯した人間である私たちを「義」であると認めて下さること"です。義認
の反対は断罪で、罪に定めることです。
 なぜ義認ということが問題なのかというと、それは私たち人間が「罪人」であって、"義でなか
った"からです。天使のように、はじめからずっと義しいものであり続けたのであったなら、義認
は取り立てて議論するものとはならなかったでしょう。
 義認はご自分の贖罪によって、イエス・キリストが人間にお与えになるのです。罪に対する処
罰を、イエス・キリストが代わりに受けたので、贖罪を授ける権威・権利はイエス・キリストにあ
るのです。
 義認は信仰によって人に与えられます。それは人が信仰によって受け取るものであって、信
仰が失われると義認も失われるのです。それはイエス・キリストとつながっているときにのみ存
在するものであって、お金を与えるようにそれだけが人間に渡されてしまうものではありませ
ん。信仰によってイエスにつながっているときにのみ義認は存在します。
 そこで信仰とは何かが問題になります。信仰とは神の権威と神が自分の審判者であることを
認め、神の愛により頼む信頼であって、それは"意志的行為"です。
 人間の「意志」は現在においてのみ存在します。「きのう、これをしよう。」などとは言えませ
ん。「あした、これをしよう。」というのは、明日の意志ではなく、今の決意に過ぎません。これが
信仰そして義認を考察する大切な鍵なのです。意志が現在においてのみ存在するのですか
ら、信仰も"現在"以外には存在しません。そして、信仰の上に立脚している義認も現在におい
てしか存在しないのです。
 この救われる信仰は、悔い改めた人が持つことができるのです。悔い改めない人は、この救
われる信仰を持つことができません。
 義認とは「救い」そのものです。救いは現在においてのみ存在します。救われた人は自分が
救われたことを自覚できるのです。ですから私たちは「私は救われました。」と証言するので
す。それが「救いの証詞」です。
 救われた私たちは"罪を赦された罪人"であって、この世の犯罪を例にとって説明すると、罪
は犯しましたが罪の処罰である刑を終えた――実際の刑はキリストが受けられて――前科者
の立場です。昔の罪は古傷です。キリストの栄光のために、古傷について証詞することもある
でしょう。しかし、神はキリストと共に死んだ昔を忘れて下さり(それは無かったものと見てくださ
り)、キリストとともに生きている今のみをご覧になるのです。
 私たちの目に救われた兄弟が、神がご覧になるのと同じように見えますように。

今月の質問
1.信仰が人間の「意志的行為である」ことは、どうしてわかりますか?
2.義認に与った人には何が与えられますか?




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