「同労者」第7号(2000年4月)      証詞に進む  目次に戻る  Q&Aルームに戻る

信仰良書

− 神 へ の 道  (1) −

D.L.ムーディー 著   仙台教会 山田 大 訳

    1.人知を越えた愛
「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:19)
 
 使徒ヨハネの「神は愛です。」という言葉、その真実の意味を人々に理解させることができさ
えすれば、私はそのたった1つの御言葉だけを携えて、この栄えに満ちた真理を宣べ伝えるた
めに世界中を駆け巡ることでしょう。
 例えばもしあなたが、愛する誰かに、あなたの愛を心の底からわかってもらえたとしたら、あ
なたはその人の心を勝ち取ったことになるのではないでしょうか。そしてもし私達が、本当に本
当に私達人間は神に愛されているのだ、(上点訳者)ということを人々に心から信じてもらうこと
が出来たとすれば、天の御国にその人々が群がり入っていくところを目の当たりにしたも同然
ではないでしょうか。 
 問題なのは、人々が、自分は神に憎まれていると思い込んでいること、それ故にいつも神か
ら逃げ回っていることなのです。
    
     焼き付けられた聖句

 私達は数年前シカゴに教会を建て、人々に神の愛を伝えようと非常に熱心でした。私達はも
し神の愛を人々の心の中に説教によって植え付けることが出来ないのなら、それを焼き付けて
(上点訳者)みようと考えました。そこで私達は講壇の真上にあるガス燈の灯りの中に「神は愛
です。」の御言葉を据えてみたのです。 
 ある晩、一人の人が通りすがりにドアの隙間からその聖句をちらりと見ました。彼は哀れな
放蕩者でした。通り過ぎながら、彼は心の中でこう思いました。"『神は愛です。』だって!とんで
もない。神は僕のことなんか愛してるもんか。なぜなら僕は貧しく惨めな罪人だからだ。"
 彼はその聖句を思いから振り払おうとしました。しかしそれは炎の文字となって彼の目の前
に浮き出て来ます。数歩歩きかけはしましたが、すぐに彼は踵を返して戻り、とうとう集会に入
って行ったのでした。説教の言葉は彼の耳に入りませんでした。しかしあの短い聖句だけは彼
の心の奥深くに突き刺ささりました。そしてそれで十分でした。もし神の言葉が罪人の心の入
口に届きさえすれば、人間が何を語りかけるかはさして重要ではありません。彼はそのはじめ
ての集会が終わった後もその場に残り、子供のように泣きじゃくっていました。
 私は御言葉を開き、彼が神を遠く離れてさまよっている間もどんなに神はいつも彼を愛し続
けておられたか、そして彼を赦し受け入れようとどんなに待ち続けておられたか、を語りまし
た。すると福音の光は彼の心に入りこみ、彼は喜びながら帰って行きました。
 世の人々は愛することにこの世で最高の価値を置きます。もし誰からも愛されず気にも留め
られていない人がいるとしたら、その人こそこの地上で最もみじめな存在でしょう。自殺をする
人々もその動機の大きなものに、自分は誰にも愛されていないという思いがあるようです。微
かに忍び込んだその思いが、そんな人生を続けることよりもむしろ死を選ばせるのです。
 聖書のどこを探しても、神の愛という真理ほど力強くまた注意深く私達が心に示されるべきも
のは他にありません。そしてこれほどサタンが消し去りたいと強く願っているものも他にはあり
ません。なぜならサタンは六千年以上もの間、私達人類が自分は神に愛されていないと思い
込むように、努め続けてきたのですから。サタンは私達の最初の祖先にこの嘘を信じ込ませる
のに成功し、しばしばその子供達にも成功を収めてきたのです。(つづく)





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