信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開 してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。 質問の送付先は 仙台聖泉キリスト教会 山本嘉納牧師まで TEL:022-266-8773 FAX:022-266-8773(TELと同じ) 自分の答えと比較してみてください。 前号の質問に対する回答 1.信仰が人間の「意志的行為である」ことは、どうしてわかりますか? (回答) この質問の背景は、"人は信仰によって義と認められますが、その信仰は人間の意志的な 行為であるので、信仰による義は現在においてのみ存在する。なぜなら、人間は現在におい てしか意志を働かせることができないから。キリストの救いは信仰による義がその基礎ですか ら、救いも現在においてのみ存在するのです。"という点にあります。 「わたし(イエス)を信じなさい。」(ヨハネ14:1)信仰は神が人間に命令されることです。命令に対 する応答は、意志でするのです。 「主よ。私は信じます。」(ヨハネ9:38)これは一例にすぎません。聖書には、このような信仰のこと ばが溢れています。すべて「信じます」という応答は、それ自体意志的な行為です。 陥りやすい誤りは、信仰を知識だと思うことです。神のおられること、神は愛であること、人間 は罪人であること、神は人間の罪のためにイエスを十字架にかからせて贖罪となさせたことな どなどについて、"そうだと思うこと"が信仰だと考えることです。そのようなことはサタンが人間 以上によく知っています。しかしサタンは信仰を持っていません。つまり、これらの知識は信仰 の基礎ではありますが、信仰ではないのです。 信仰とは、「知っている」こではなく「信じている」ことであって、神に信頼する意志的な行為な のです。 2.義認に与った人には何が与えられますか? (回答) 第一に、義認に与ると、新しい命が与えられます。それを「新生」といいます。義認と新生は 紙の表裏のように一体で切り離すことはできません。それとともに罪の責めから解放されま す。「子よ。心安かれ。汝の罪赦されたり。」(マタイ9:2文語訳) 第二に、聖霊がその心(魂)の中に住んでくださいます。「キリストの御霊を持たない人はキリ ストのものではありません。」(ローマ8:9)聖潔の恵みときに与えられるような豊かな聖霊の内住で はありませんが、聖霊は心の内におられるのです。そして、神を「アバ。父」(ローマ8:15)と呼ぶこ とができるものとされ、自分が神の子であることを自覚できます。また聖霊は祈りのできるもの としてくださいます。聖霊が一緒に祈ってくださる(ローマ8:26)からです。 第三に、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。」(ヨハネ3:3)と書いてあ るとおり、新しく生まれると、神の国を見ることすなわち霊的な事柄に関する知識が与えられま す。新生していない人は、霊的な事柄に関しては門外漢であって、中には自分がクリスチャン だと思い、聖書をせっせと研究していながら、実は何も知らないのです。 神の子には光があり、新生していない人には闇があります。(ヨハネT1:7、2:6、9〜11) 第四に、「良心がきよめられ」(ヘブル9:14)て、その価値観が変えられ、天に属するものを価値 あるものと認めることが出来、義に生きる努力をするものと変えられます。 第五に、罪を赦されたのですから、謙遜なものとなります。 救われた人は、このような素晴らしい恵みを与えられて、信仰をスタートするのです。いつの 間にか後退して、恵みをわすれ、高慢になりませんように。 これらの恵みは、悔い改めて義とされた人に与えられるものです。悔い改めることなくこれら のよいものが与えられることは決してありません。恵みは十字架の向こう側にあるのです。先 行恩寵は人を悔い改めに導くために与えられるのであって、義認の後の恵みに対して与えら れるのではありません。 今月の質問 今月も質問をしますから、答えを考えてみてください。 1.先月の回答に、"救われた人(神の子)には光がある"と述べましたが、その光とは何です か。また"新生していない人の闇"とは何ですか? 2.「良心」と「価値観」にはどんな関係があるのですか? |