「同労者」第8号(2000年5月)      証詞に進む   目次に戻る   Q&Aルームに戻る

信仰良書

− 神 へ の 道  (2) −

D.L.ムーディー 著   仙台教会 山田 大 訳

  どんな時神は愛してくださるのか

 神に愛されていないという思いの多くは、間違った教育が原因です。母親は子供に、「悪いこ
とをすると神様は愛してくださいませんよ。神様は良いことをする時だけ愛してくださるのよ。」
と、間違った教え方をします。これは聖書的ではありません。親は自分の子に、「悪いことをす
ると私はあなたを憎みますよ」とは言いません。子供の悪い行いによって親の愛が憎しみに変
わるわけではないのです。もしそうだとしたら、親は幾度愛と憎しみの間を行き来しなければな
らないでしょう。子供が怒りっぽいからとか、言うことをきかないからといって、親は、その子が
自分の子ではないかのように、追い出したりするでしょうか。決してそんなことはしません。それ
でもその子は自分の子であり、親は子供を愛しています。神も、私達がそむいたからといって
憎むことはなさいません。ただ罪を憎まれるのです。
 私はこう確信しています。非常に多くの人々が、自分は神に愛されていない、と思
う理由は、自分の見地から、自分の小さなはかりで、神をはかってしまっているからであると。
人間は、相手が愛するに値すると思う間だけ愛します。そして、もし相手にその価値がなくなれ
ば、見限ってしまいます。しかし、神はそうではありません。人間の愛と神の愛との間には非常
に大きなひらきが存在します。

        神の愛の範囲

  エペソ人への手紙3章18節に、神の愛の広さ、長さ、深さ、高さが語られています。
 今日、私達の多くは、自分達は神の愛についてある程度は理解している、と思っています。し
かし、数百年の後には、自分たちが神の愛の何ほどのことも見出していなかったことを認めざ
るを得ないことでしょう。コロンブスはアメリカ大陸を発見しました。しかし彼は、そこにある大き
な湖や川、森林やミシシッピ川流域について、どのくらい知っていたでしょうか。彼は自分が発
見したものについてほとんど知ることなく死んだのです。
  同様に,私達は神の愛の幾ばくかは見出しましたが、そこには私達の知らない高さ、
深さ、長さがあります。神の愛は大きな海です。そして私達はその何ほどもよく知らないうちに
そこへ飛び込む必要があるのです。パリの或るローマカトリック大司教についてこんな話があ
ります。彼は刑務所に入れられ、銃殺刑が宣告されていました。死刑場へ連れ出される直前、
彼は独房の窓が十字架に見えたそうです。その縦棒の一番上に、彼は「高さ」と書き、一番下
には「深さ」と、そして横棒の両端には「長さ」と書きました。彼はかつて、次のように讃美歌に
歌われている真理を体験したことがあったのです。

  栄えの君がそこで
       死んでくださった
  その驚くべき十字架を
      私が仰ぐとき
(インマヌエル讃美歌75番「さかえの主イエスの」)

  神の愛を知りたいと願うなら、カルバリへ行かねばなりません。あの十字架の光景を見下し
て、神は私達を愛していない、と言える人が誰かいるでしょうか。十字架は神の愛を教えます。
十字架が伝える愛より大きな愛は、かつて語られたことがありません。神がキリストを与えてく
ださったのは、そしてキリストがいのちを捨ててくださったのは、愛からでなくて何でしょう。「人
がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」キリ
ストはその敵のためにいのちをお捨てになりました。ご自身を殺した者達のためにいのちをお
捨てになりました。ご自身を憎む者達のために...。十字架の精神、カルバリの神髄は愛で
す。あの場所で、あざけられ、ののしられた時、主は何と言われたでしょうか。「父よ。彼らをお
赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」これが愛です。主は彼らを
焼き滅ぼすために天から火を呼び下すことはなさいませんでした。あの時、主の心の中には愛
のほか何もなかったのです。





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