「同労者」第9号(2000年6月)
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や新聞、雑誌を決められた場所に持って行くのであるがいかにそれらが多いかをその時実感 する。情報に溢れた時代であるから必要とあらばどこにでも転がっているし、安価で手に入れ ることができる。関心がその原動力だが容易く手に入れたものは容易く手放してしまうものであ る。情報も浪費する時代なのかもしれない。関心という観点から見ると私たちの聖書に対する あり方はお世辞にも好いとは言えない。理由は色々と考えられるが関心をその原動力としてい る限りはなかなか到達し得ない距離に聖書が置かれているような気がする。こうでなければな らないという読み方があるわけではないが、聖書につかえ、それを商いとしている自らは、そん な時代にあって良き聖書の解説者でありたく願うものである。目指しているところは、聖書を私 たちの身近な出来事に結び付け、関心を持ってこれを読み進める手助けである。タイトルの 「昨日のサムエル記」は、そんな意味から付けさせてもらった。 前回までの解説は、イスラエルの初代の王、サウルの戦争奮闘記になっていた。戦争の戦 術や戦略、歴史的背景などに興味のない方にはつらい内容になってしまっていたがそれをす る必要が実はあったのである。多くの相違点を持つサムエル記の時代と現代であるが聖書が 今の私たちに確かに伝えていることは神のみ旨である。今も生きて私たちにそれを通して語ろ うとしている方がおられると信ずる時、聖言は私たちを捕らえて離さないものである。『そのと き、サムエルに次のような主のことばがあった。「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。 彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通 し主に向かって叫んだ。』(サムエルT15:10〜11)問題は、全知全能者である神が「悔いる」という ことである。全てをご存知な方がお選びになり、その責任に任命したサウロ王であるにもかか わらず、このような結果になると神は知ることができなかったのであろうか。この解説を神の全 知に対する分析からするのではなく、選ばれたサウル王からして行きたいと思う。そのために 彼の戦争奮闘記、特にアモン人との戦いとペリシテ人との戦いをここまで書いて来たのであ る。聖書は、サウルが確かに神の選びの器であることを伝えているし彼がいなかったらイスラ エルはどうなっていたかわからない状態であった。前にも書いたようにイスラエルの王権は決し ておいしいものではなかった。それよりも神の任命がなかったらなる者など誰一人としていなか ったのである。召されたからこそやっているのである。ずいぶんサウルの肩を持つなと言われ そうだが、召されている者の苦悩をご理解頂きたいのである。自分のことを言っているのでは ない。全て神に召し出され、選ばれてその導きの中に確かに生きよう、その責任を精一杯果た そうとしている者の声である。 神は全能なる方であるがその力を横暴に用いられる方ではない。私たちが責任や課題を抱 え、それがどこに導かれなければならないかを定めて取り組むが、時に思わしく行かなかった り無理解に見舞われたりする。「ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っ ている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒 麦も現われた。」マタイの福音書に書いてあるキリストのたとえ話である。このように大いなる 収穫を期待して蒔いたにもかかわらず不本意な結果がもたらされると私たちは自暴自棄にな りやすいものである。善意と誠意と愛を持っておこなっても受け入れられないと簡単に「もう止 めた。」と言いやすいものである。しかし、よくよく考えてみるとそれでは当初持った良き動機、 それが愛にせよ責任感にせよ結果が伴わなければ無に等しいものである。「そのようにして神 はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」とご自身のな さった技を述べられているにもかかわらずその後、人間は罪に落ち堕落してしまった。幾度と なく神は人を創造されたことを悔やまれたことだろうか。もし、「もう止めた」と言われたらそれで 終わりである。私たちは神のみ旨を全て知ることはできない。理解することもできない。まして 異論をさしはさむことなどできるものではない。しかし、キリストの十字架を考えるとき神は全能 者であるにもかかわらず私たちと同じように忍耐を持ってなお取り組んでくださる方であること を知る。創造がどのような結実をもたらすかを当初の動機と共に神はなおも私たちの内に働い ていて下さるのである。もしかしたら神はご自身の創造という一大プロジェクトの評価を私たち 人間に委ねておられるのかもしれない。 話をサウル王の問題に戻して考えてみる。神はそんなに簡単に彼を退けたのではないことが わかる。完全ではなかったが彼を置いて他にイスラエルの王になるべく器は無かったのであ る。神と人が協力をしてイスラエル王国の建国はなされていかなければならなかった。非現実 的な事柄、奇跡とか超自然的な現象というものは一時、人を信仰的にまた神に近づけることに 力を発揮するが長続きしない。人の救いを全うする力をそれ自体は持っていない。それが証拠 にキリストの多くの奇跡的業に当時のユダヤ人は歓喜の声を上げたがイスラエル入城から一 週間も経たないうちに彼を十字架刑に処した。3年間以上もキリストと共に働き多くの奇跡的技 を見たし自らも行ったが多くの弟子たちは最後まで彼と共にいることができなかった。サウル 王の資質や賜物以上に建国に必要だったものは彼が神をその協力者と自戒し続けることであ る。従順であるということは単に言われたことを一から十まですればいいというものではない。 愛を持って主人の真意を探りつつことの成就を図るのである。彼が不従順であったところは、 彼が最終的に取捨選択しなければならなかった時、イスラエルの神、主を取らずイスラエル国 民を取ったところにある。アモンとの戦いは別にして、彼は王としての責任を果たす現場である 戦争において、自分と共に戦って下さる神を選ばず民を選んだのである。ペリシテの戦いで恐 れて逃げようとした民を留めるために祭司でもないのに全焼のいけにえをささげ、神のことば を蔑ろにし自分と戦ってくれる民に期待した。続いてのアマレク戦(サムエルT15章)も聖絶を命じ られた神のことばを退け、民が欲しがった戦利品を取る事を許したのである。 私たちはイスラエルの王ではない。そんな器でもないし能力も無い。しかし、私たちは自分の 子供の親としてその責任を果たさなければならない。これに器は関係ないし、能力が無いから 子を持たないという夫婦は少ない。神の前に生きるものとして家庭建設はその方の「悔い」を 招くか、『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあな たにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:21)と言って頂けるかが 問われる現場なのである。それを決する時は必ずやってくる。神を取るか自分の子を取るか。 取捨選択の時が。 |