| 
          
           「…主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。… 主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入られる。」(詩篇6:4、9) 
           詩篇の中には悔改めの詩というものが7つあると言われますが、この第6篇はその最初のも
           
          のです。 
           全体を通して神に赦しと憐れみを乞い求める切々たる祈りのひびきが心を打ちます。罪のた
           
          めに体はボロボロになり、死を予感する厳しい中で眠れぬ夜の床を涙でぬらして、この詩人は 神を仰いでいます。しかし第8節9節を転機として空気は変わり明るい光が射し込んできます。 その鍵は「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。」という喜ばし い確信です。 
           私たちの人生にとって暗黒の闇を打ち破るのは、主イエスさまが私の泣く声を聞いて下さり、
           
          私の願いに心を留めて下さることに目が開かれることです。その時この詩人のように現実は少 しも変わっていないのに勝利と平安に満たされるのです。 
           悔改めとは罪を神様の前に並べ立てることではなく神の慈しみの御手に抱かれ喜んで主を
           
          賛美することです。主に顔をあげ「主よ。お従いします。」と言うことです。悔改めは唯1回切り であってはなりません。罪に気づいたら直ちに改めることが悔改めです。皮肉なことに、信仰生 活が長くなったり教会の役職についたりすると、悔改めが難しくなり勝ちです。その意味で牧 師、役員は最も悔改めに遠い所にいる者です。 
           イエスさまが「安息日にして良いのは善を行うことなのか、それとも殺すことなのか。」と問わ
           
          れた時、パリサイ人達は黙っていたとあります。彼らは答を知っていても言えなかったのです。 それは彼らの肩書き、立場が妨げでした。皮肉なことに人間は高い立場に立つと謙ることが難 しくなります。主は彼らの頑なさを怒り、また嘆いたと記されています。悔改めとは、主に栄光を 帰し主にお従いする素直な心以外の何ものでもありません。  |