「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えにな
ります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の 御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしない からです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あ なたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:16〜17)
今年の聖霊が降臨された、ペンテコステの記念日は、5月30日、月遅れの論説となりました
が、やはり取り上げておきたいと思います。
皆さんはイエスが復活され、天に帰られた後、聖霊がおいでになったことを、自らの信仰生活
の中でどの程度大切だとお考えでしょうか?大切だと思うことは口にのぼるものです。「聖霊」 という名や「ペンテコステ」、「聖霊の内住」、あるいは「聖潔」、「潔め」とか「ホーリネス」といっ たことばが全く口にのぼらないとしたら警戒を要します。
ヨハネの福音書14章から16章にイエス・キリストが最後の晩餐の際に弟子たちにした告別
の説教が記されています。その語られた中に、イエスが去られた後、イエスに代わるお方とし て聖霊がおいでになることがありました。説教のなかで最も大切な内容であるといえます。イエ スはそのように、「聖霊」が弟子たちに与えられることを大切なこととされました。
使徒たちはどうでしょうか。使途の働きを読んで見ると、ペンテコステの後、使徒たちは人々
が救われると、すぐに聖霊に満たされることを当然としていたことが分かります。サマリヤ人た ちが救われると、使徒たちはすぐペテロとヨハネを派遣しました。彼らがサマリヤ人たちのため に祈ると聖霊が彼らの上に降られました。そのように使徒たちは聖霊に満たされることを大切 なこととしました。
「信じたとき、聖霊を受けましたか。」これがエペソを訪れたパウロがイエスを信じた弟子たちに
まず述べた質問でした。彼らが聖霊を知らないことが分かって、パウロが彼らのために祈ると 聖霊が彼らに降りました。そのようにパウロは聖霊に満たされることを大切にしました。
ペンテコステの日の異象は不要です。「助け主」が心にきて住んでくださることが大切なので
す。
私たちの教会の、私たちの先を歩んだ人たちもこれを大切にしました。私たちの教会、聖泉連
合の看板は、「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの 泉が開かれる。」(ゼカリヤ13:1)罪を聖める泉です。それは聖霊によってなされます。私たちはそ れを価(あたい)高く値づもろうではありませんか。説教にも、私たちの会話にも、それが語ら れるようにしようではありませんか。
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