「同労者」第57号(2004年7月)        聖書の植物に進む  目次に戻る  トップに戻る

Q&Aルーム


 信仰生活のこと、教理上の疑問など様々なことについて、誰かに聞いてみたいことがおきてく
ると思います。教会の先生に伺うことは勿論一番ですが、それを独り占めしないで、すこし公開
してください。それを皆で考えると、きっと皆さんにとって益になると思います。送付先は巻末に
あります。

回答例(作成者:野澤)
 R.A.トーレイの「聖書の教え」に整理されている項目を引用して、イエス・キリストの品性につ
いての説明を続けます。

<イエス・キリストの品性> 
4.霊魂に対するイエス.キリストの愛(つづき)
(5)イエス・キリストは失われた魂が見いだされたときに、大いなる喜びをなされた。
「見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、
『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに
言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十
九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15:5〜7)
 羊飼いは迷いでていた羊を見いだした時に大いに喜び、あの婦人は結婚の首飾りに付けら
れていた金貨を失って、再びそれを見いだした時に大いなる喜びを感じ、金を採掘する人は、
堅い岩石の中から運よく掘り出した金塊を見て有頂天になって喜び、良い真珠を捜し求めてい
た商人は、非常に高価な真珠を見いだしたときに大いなる喜びを表します。そのように、いや、
それ以上に、イエス・キリストは失われた魂を見いだしたとき、無限の喜びをなされるのです。
(6)イエス・キリストは救いを拒む失われた魂のために大変悲しまれる。
「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:
40)
「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「お
まえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえ
の目から隠されている。」(ルカ19:41〜42)
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。
わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたこと
か。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ23:37)
 イエスを拒んでいる失われた魂の上に、イエスがなさったような、大きな悲哀を実際に経験し
た人はこの世には一人もいません。たとえ女が大切な真珠を盗まれたことを悲しみ、母がその
愛児を失ったことを悲しんだとしても、イエスのこの大きな悲哀には到底比較ことができませ
ん。また人々がいのちを得ることを拒んで、イエスのみもとに来ようとしないような場合に、イエ
スの心を刺し貫く苦痛を描写できる言葉はありません。
(7)イエス・キリストは人々の魂を救うために、喜んでご自身のいのちを捨てられた。
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人の
ための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)

5.イエス・キリストの憐れみ
5.1 キリストの憐れみの対象
(1)イエス・キリストは飼う者のいない羊のように散らされ、悩んでいた群衆を見て、憐れみを覚
えられた。
「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊
のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)
「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思わ
れた。」(マタイ9:36)
 イエス・キリストが、今もしシカゴ市におられたらどうでしょうか?現在(1800年代後半)の中
国における幾億の人々に対して、イエスはどんなにお感じになるでしょうか?そうした思いを、
あのパリサイ人たちと比較してごらんなさい。「議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信
じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」これがパリサイ人た
ちのことばでした。
(2)イエス・キリストは植えた群衆を憐れまれた。
「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていない。」
(マルコ8:2)(以下次号)

<今月の質問>
 来月もイエス・キリストの品性について説明を継続します。説明について、疑問点がありまし
たらお知らせ下さい。また、これらを離れた質問も歓迎致します。

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