「同労者」第57号(2004年7月)      三浦綾子読書会に進む 目次に戻る トップに戻る

信仰良書

− 神 へ の 道  (46) −
         D.L.ムーディー 著   仙台教会 山田 大 

(前号のつづき)ダニエル12:10ではこう言われています。「多くの者は、身を清め、白くし、こう
して練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟
る」。神はご自分の秘密を敵には明らかになさいません。絶対にです。もし人が罪の中に生き
続けるなら、その人は神の教えを理解することはないでしょう。「主はご自身を恐れる者と親しく
され(英欽定訳:主の秘密は主を恐れる者とともにあり)、ご自身の契約を彼らにお知らせにな
る」(詩篇25:14)。
 さらにヨハネ15:15には「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人
のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いた
ことをみな、あなたがたに知らせたからです」とあります。あなたがキリストの友となる時、主の
秘密を知るでしょう。主は言われました。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠して
おくべきだろうか」(創世記18:17)。
 神に似ている人こそ最も神を理解するのにふさわしい人でしょう。もし人が罪から離れようと
しないなら、その人は神の御心を知ることはないでしょうし、神もご自身の秘密をその人には明
らかにされないでしょう。しかしもし人が進んで罪から離れようとするなら、いかに多くの光がや
って来るかを見てその人は驚くことでしょう。
 なぜ聖書が「無味乾燥」だったのか
 聖書が私にとってこの世で最も無味乾燥で暗い書物であった夜のことを思い出します。それ
が次の日には全く違ったものになりました。私はその鍵をつかんだと思いました。私は御霊に
よって生まれたのです。しかし神の御心を少しでも知る前に、私は自分の罪を捨て去らねばな
りませんでした。神の導きと指差しに進んで身を委ねるなら、人が自分を献げるその場所で神
は全てのたましいにお会いになると私は信じます。
 多くの懐疑論者の問題点は彼らの思い上がりです。彼らは全知全能のお方より知識がある
つもりなのです。彼らは教えを聞く心ではやって来ません。しかしもしある人が受け入れる心で
来るならその人は幸いです。なぜなら「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人
は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与
えられ」(ヤコブ1:5)るからです。


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